気がつくと、最初に見えたのは、薄汚れた白い天井だった。

 自分はどうやら寝ているようだと思い至り、首を横に倒してみると、長身の、眼鏡をかけた男が、自分の寝ているベッドの隣に椅子を並べ、リンゴを剥いている。

 誰だろう?

「あの。すみません。ここはどでしょうか?」

 声を出したら、かすれていた。のどが渇いていることに、そこで初めて気がつく。

 男が、ひょいと顔をあげた。色素が全体的に薄いのに、眼鏡の奥の眼光は強いと思った。

 彼は、パクパクと、ゆっくり口の開閉をくりかえしてから、剥いていたリンゴをひとかけら、私に差し出す。

「えーっと。病院の一室です。気がついたんだ?」

「は?」

 リンゴを受け取りながら、彼の言葉がひっかかる。

 気がついた?

 私は気を失ってでもいたのだろうか。

 リンゴはありがたく口に含む。渇いた喉に、みずみずしい果汁がしみわたるようで、美味い。

 礼を言おうと顔を上げたのに、色素の薄い眼鏡の彼は、思い切り眉間にしわを寄せていた。

「あれ?覚えていないの?」

 胡散臭そうに私を見る目に、ちょっと腹が立った。

「何をですか?」

 覚えていないって、何を?

 訝しげだった彼の表情が、がらりと変って、今度は目を見開いた驚きの表情になる。ずいぶんと表情筋の発達した男だ。  しかし、その顔が、どんどん白くなる。血の気が失せていく人間の顔というものを、初めて目の当りにしたと思った。

「・・・・・・・・・・・・えーっと、ドクター!!!ドクター!!」

 ガタンと椅子を蹴倒して、すさまじい勢いで、男が白い部屋から出て行った。

 ドクター?そういえば、ここは病院だそうだ。そうするとここは病室か。

 私は何故、病院にいるのだろう?  彼は誰だろう?何故私のそばにいたのだろう?誰?私の名は・・・。

「あら。セインはどこよ?」

 明るい声が聞こえて、思考を中断して病室内を見渡せば、きれいな金色の髪の女の子が立っていた。

「あの?君は?」

「うわー。アンタから君なんて言われると、こんなに鳥肌が立つものなのね」

 のっけからなんだろう。この女の子も、私を知っているのか?

 私は誰なんだ。

 しかし、躾のなっていないお嬢さんだ。

「あの。さっきから失礼じゃないですか」

 注意してやろうと口を開いたのに、呆れたように手を振られ、ため息まで吐き出された。

 立場が逆な気がする。

「記憶喪失?いいのいいの。いっつもアンタから失礼なことされてて、迷惑ばっかりしているから、こういう時くらい復讐させなさいよ」

「は?あの。私はそんなに迷惑な人間なんでしょうか」

「だから敬語やめなさいよ」

 本当に失礼だな。

「・・・まあ、子供に敬語というのもおかしな話か」

「そこでアッサリ開き直るのが流石だわ」

 にやりと笑った女の子の背後で、先ほどの眼鏡の男が勢いよく入室してくる。

 騒がしい。

「ちょっとキャル!何やってるの?!」

「見てわかるでしょ。道端でバナナの皮踏んで見事に後頭部からすっ転んだ挙句に記憶喪失になったおバカさんに事情を説明しようとしているまさにその最中よ」

 まて。

 私はそんなコミカルな理由でこんな状態なのか。

「いや、見てわからないし」

 そのとおりだ青年。

「私も初めて聞いたし」

 ますます頭を混がらかせていると、白衣の痩身の髭男が入室してきた。医者か。

「怪我人が目を覚ましたというから来てみたのだがね。私は必要なさそうだね」

「いえいえ、ドクター。ちゃんと見てやって下さいよ」

 会話からしても間違えようもなく医者だ。

 医者は私に近寄って、顔を覗き込み、眼球を覗き、手首をとり。

「どら。・・・・・うん。脈も瞳孔もしっかりしているようだね。痛いところは無いかな?」

 言われて気づく。

「あの。後頭部が少し」

 痛む。何故だ。

「うん。見事なこぶが出来ていたからねえ。氷嚢で大分冷やしたけど、頭がかち割れなかったのだから、君は自分の頑丈さに感謝しないといけないね」

 こぶだと?まて。本当に私はバナナの皮なぞふんづけたのか。

「こんなコミカルなことが実際に起こって、我が病院に運ばれてくるなんて。私は運がいいのかね?」

 聞かれても困る。私は当事者だ。貴様こそバナナで滑ってみるがいい。

「で?彼はどうなんですか?」

 眼鏡の男が医者に回答を促す。私も一番聞きたい事柄なので、なんとなく姿勢をただす。

 それだけで、女の子も青年も、何か嫌なものでも見るような目つきで私を見る。

 なんだというのだ。まったく。

「うん。頭のこぶ以外は健康だよ。見たとおりね。ただ、記憶障害を引き起こしているようだね」

 ドクター。記憶障害というのは、つまり。

 不安に揺れているであろう私を落ち着かせるように、ドクターは微笑んだ。

「一時的なものだとは思うけど、記憶喪失になっちゃっているね、彼」

「ええー。困ったな」

「やっぱりだわ。気持ち悪い」

 こら。

「気持ちはわかるが」

 こら医者。

「ま、軽いものだろうから、記憶が戻るまで根気よく付き合ってみたらどうかね」

「軽いって、すぐ戻るんですか?」

「さあ、それは何とも言えないね。同じ衝撃を加えれば、はずみで戻ることもあるかもしれないが、あまり無茶はしちゃいかん。脳みそは繊細にできているものだからね」

 ドクター。だったらその説明はいらなかったのではないだろうか。

「私はどうしたら」

 不安だ。

 この青年と少女しか、私を知る人間はいないのか。

「どうもこうもないわ。私たちと一緒に役所に行ってもらうわ」

「え?」

 役所?記憶障害になると役所に行かねばならにのだろうか?

「キャル。それはいくらなんでもマズイよ」

「良いじゃない。記憶がなくなっている今が絶好のチャンスよ!」

「そりゃそうだけど」

「何言ってるのよ、医療費でいくらかかったと思っているの?たかがたんこぶで入院よ?!」

「お怒りはごもっともなんだけどさ」

「最高賞金額が手に入るのよ?そもそも時間がないの」

「・・・・・そうだったね」

「ね?これでも大賞金首なんだから」

 なにやら部屋の片隅で、ぼそぼそ話込んでいる二人の背中を見つめる。

「あの?」

 声をかけてみる。

 二人とも、ちらりとこちらを見やった。

 にんまりと笑った。良くないことが起こりそうだ。

「さて。意識もしっかりしていることだし、いつでも退院していいからね」

 医者はにっこりとそう言って、満足そうに部屋を出て行った。

「それならすぐに退院よ!」

 女の子が元気に私の布団をはいだ。

「さ、寒い!」

「でかい図体で何言っているの。さっさと着替える!」

「い、いや、あの、聞きたいことがまだ山ほどあるんだけど」

「ああ。手始めに自己紹介しておこうか?」

 ずいずいと先を進める女の子に辟易していると、眼鏡の青年がにっこりと微笑んだ。

 なぜだろう。微笑みが怖い。

「僕がセイン。彼女が、キャロット。僕はキャルって呼んでる」

 丁寧に説明される。

 聞き覚えの全くない名前だ。しかし、記憶を辿ったところで、自分自身に記憶がないのだから、聞く名前すべてが聞き覚えがなくて当然なのだが。

「あんたは先に役所へ行ってて。玄関に行ったら、タカがいるわ。タカにこれ渡して」

 言いながら、巾着と着替えを手渡された。

 広げてみれば、シャツとズボンと太めのベルトに・・・装飾の付いた小ぶりの剣?

「こ、これ?」

「君の私服だよ。その剣は無くしちゃ駄目だからね。君の大事な物らしいから」

 言われなくても、こんな宝石がちりばめられた豪華な物、無くすわけにいかないだろう。

 って、え?私物?私の?これ宝石本物?

「痛い!」

 目を白黒させていたら、背中を叩かれた。

「いいから、さっさと着替える!時間無いのよ」

 涙目で叩いた女の子を見下ろせば。

 なんですか、その黒光りする物体は。

 え??銃?拳銃?!

 ちっちゃい子には似つかわしくない!何故そんなものを持っている!

「早く着替えて、ダッシュで病院の玄関!急ぐ!」

 眼鏡青年に、きれいに微笑まれて、背中に戦慄が走った。

 何だ?怖いのに懐かしい感覚だとか思ってる自分は何なんだ。

 とにかく着替えて、病室から逃げるように飛び出した。

 玄関へ行けと言われたが、よく考えたら玄関の場所が分からない。とにかく一階だ。玄関は一階にあるものだ。

 通りがかりのナースや患者に道を聞きながら、なんとか玄関にたどりついた。

 が、しまった。タカってどこのどいつだ。特徴を聞いておけばよかった。くそ。

「どわあ!」

「ああああ!良かった心配しましたよ元気そうでなによりです」

 背中に強い衝撃を受けて振り返れば、禿げ頭が見えた。

「あなたが、タカ?」

 尋ねれば、驚いて私から離れた。上から下まで、全身をなめるように見られる。

「これ、キャル?だっけ。小さい女の子から、渡すように頼まれたんですけれど」

 おどおどする禿げ頭は、前歯も一本無かった。なんとも愛嬌のある顔だ。

 そっと巾着を受け取ると、中を開けた。手を突っ込んで何か引っ張り出した。折りたたまれた紙?

 それを睨むようにじっと読んでいた禿げ頭は、決意したような顔になって、急に真顔になると、眉を吊り上げて私の腕をつかんだ。

「こっちです!」

「え?役所?」

「へえ。役所で待ってろってことですんで」

「ま、待ってくれ。君も私を知っているんだね?私の名前は何と言うのか教えてもらえませんか?あの二人には、結局聞けずじまいで」

 引っ張られながら、今のところ一番に聞きたいことを聞いてみただけなのに、 禿げ頭はくるりとこちらを一度振り返ったと思ったら、人の顔を見て泣き出した。

 しかも、オイオイ泣きながらどんどんと私の腕を引っ張って歩いていく。

 正直、恥ずかしい。

 道行く人々が、みな何事かとこちらを見るのだから、たまったものではない。

 恥ずかしくて下を向いているうちに、いつの間にか役場にたどりついた。

「ロビーで待っていればいいです。おれっち、飲み物持ってきます」

 鼻水をすすりながら、タカという名前らしい禿げ頭は消えた。一人でため息をつき、考える。何せまだ自分の名前さえ判明していない。私は一体どういう人物で、何をしていたのか。自分を見聞してみる。・・・見た目は良いほうではなかろうか。肌は日に焼けて健康的だ。手は豆だらけ。何か力仕事でもしていたのだろうか。

「すみませんが」

 ロビーの長椅子で、あれこれ考えていたら、声をかけられた。

「なんでしょう?」

 顔をあげたら、目を細められた。なんだというのだ。

「うーん。違うかなあ」

 真剣な眼差しだ。何が違うんだ。私の顔は人と違うのか。

 失礼な奴ばかりだな

。 「そっくりなんだけど、こんなじゃないよなあ」

 そっくり?

「何かご用で?」

「ああ、いや、でも、まさかこんな所にそんな大物がいるわけないし、同じ顔してても雰囲気全く違うし。他人の空似かね」

 人の質問にはきちんと答えていただきたい。

「ちょっと、あんた邪魔」

 いかにも渋面を作って、禿げ頭が紙のコップを二つ持って立っていた。

 すると、人の顔をじろじろ見ていた男は、ばつが悪そうに頭を下げて出て行った。何なのだ。

「お茶です。旦那のお茶には程遠いですが」

 コップを渡されて、礼を述べると、先ほどよりひどい渋面を作られた。私は普通に行動しているつもりなのだが。礼を言ったりすると皆渋面になるのは何故だ。私はそんなに奇妙な人間だったのか。記憶を失う前の私。出て来い。じっくり観察してやる。

 すすったお茶は、それなりにヒーリング効果をもたらした。

「やっほー!タカ、いる?」

 ほどなくして、元気で聞き覚えのある声がロビーに響いた。

「お嬢!」

「お疲れ様。手続きしてくるから、ちょっと待ってて」

 そう言って、女の子が役所のカウンターへ行った途端に、なんだか周りが騒がしくなった。どやどやと、役人が行きかう。

「時々私を変な顔で見る人がいるんですが」

「ああ。気のせいよ」

 ご機嫌な女の子だが、手に分厚い封筒が握られていた。それってもしかして。

「うふふー。すっごい大金だわ。しばらく無理しなくてもいいわね。アンタのおかげよ」

 封筒を口元に充て、にんまりと笑う表情は艶やかで、とても小さな女の子とは思えない。その視線の先には。

 先には・・・。

「へ?」

 何故だ。私そっくりの顔が壁に張られている。指名手配中の賞金首?え?

 金額は・・・い、一千万ゴールド???!!

「ありがとね」

 にっこりと言われてしまった、そのセリフ。その封筒に入っていると思われる大金。それって、つまり?

「嘘おオオオオオ!?」

 私は思わず逃げ出した。形振りなんかかまっていられるか。

 役場の入り口を飛び出したら、階段の下に眼鏡がいた。しまった。

「やあ。無事みたいだね」

 手を挙げて挨拶されても、しらじらしい。私を騙したな。

 ひきつった私の顔を見て、眼鏡が首をかしげた。

「どうしたの?ギャンガルド?」

 どうしたもこうしたもあるか!人のよさそうな顔をして!

 何か一言でも言ってやろうと口を開いた瞬間。

「キャプテン!あぶねえ!」

「のわ!」

 またもや背中に衝撃が。

 階段の上を、私は宙に舞った。首をひねって背後を見ようとしたら、体全部が後ろを向いた。ナイフのようなものが、私の立っていた場所に突き刺さるのが見えたが、そのまま仰向けに私は階段からダイブした。

 世界が真っ白になった。



「まあなんというか。ここからは、僕が説明するよ。翌日、うちどころが良かったというべきか。目を覚ましたギャンガルドは、元の不遜なギャンガルドに戻っていた。でもね。彼、自分が記憶を無くしている間の事は忘れていたんだ。 で、すごく悔しがってた。そんな面白いこと、なんで忘れちまったんだあー!って。だから教えてあげたんだ。 自分を「私」って言っていたこと。敬語でしゃべっていたこと。 僕とキャルが捕まえた、医者の賞金首の賞金を、キャルにまんまと乗せられて、自分の賞金だと勘違いして逃げ出したこと。結局、それでギャンガルド本人だとバレて、首を狙われて、危ないところをタカに助けられたこと。 そうしたら、どんどん真っ赤になっちゃってね。滅多に見れないよ。穴があったら入りたいって顔していたね。 でも、元に戻ってくれて良かったよ。もじもじする彼は何とも言い難い。君にも見せてあげたかったな」

「あ!賢者!何の話してやがる!こらジャムリム笑うな!」

「まあ、そんなあんたを見てみたかった気もするけど。とりあえずは、ギャンガルドの石頭に感謝だね」

「ほんとよね。バナナで滑って気を失った時はまさかと思ったけど」

「とにかく正気に戻って良かったすよ。おれっち、皆になんて説明したらいいのか、真剣に悩みましたもん」

「お前ら好き勝手言いやがって」

「はいはい。皆ギャンガルドがギャンガルドでいてくれないと困るって言っているんだから、素直に喜びなよ」

「あら。良い意味じゃないのよ。単に素直なギャンガルドは気持ち悪いっていうだけ」

「ああ、じゃあ、ここで素直じゃないギャンギャンは正気てことか」

「・・・しばらくバナナは見たくもねえな」

「ある意味すごいわよね。海賊王を倒したバナナの皮って」

「だから、お前ら笑うな!」



全てはここから始まった。
友人からリクエストもらったのが始まりです。
お題は「ギャンガルドの記憶喪失」でした。
こんなでも楽しんで頂ければ幸いです。リクエストありがとう!わが友よ!


BACK