幽霊案内人 円屋壮太
作:coconeko


 大きな枝垂桜が、柔らかな風に、しなやかな枝を揺らしている。
 残念ながら、今は枝に花は無い。
 ようやく冬の厳しさも消え、雪も町の界隈から消え去り、日差しが春めいて来たばかりだ。暖かな日差しに、枝垂桜の根元に、蕗の薹が、丸くてぽってりとした、かわいらしい芽を出していた。
 その桜を尻目に、すぐ横にある通りの上を、人々は関心が無さそうに往来する。
 その中に一人。一際小さな人影がある。
 小さいのも道理で、まだ子供だ。
 一丁前にざんばらにした髪は短く、店の名前が染め抜かれた前掛けをして、きっちりと着物は着崩れさせてもいないのは、髪型のわりに、几帳面な性格なのだろう。
 名を文吉といった。
 奉公先の使いを済ませ、川べりの帰り道を、何とはなしに急いでいる所だったのだが、ふと、これも何とはなしに見やった先で、見知った姿を見つけた。
 川の畔に一本、うっすらと色付いた蕾を付けた、大きな枝垂桜の傍で、足元に白い犬を一頭侍らせて画板を持ち出し、何やら描いている人物。
 こちらを見てはいないし、気が付いてもいない様子だ。
 短めの髪は後ろの高いところで一括りにし、飄々とした風情は今日も変わらない。
 あまり顔を合わせたくはないのだが、あれでも一応自分の主人にあたるお人だ。無視するわけにもいかず、文吉は声をかけた。
「何をしていらっしゃるんです?」
「うん。お仕事」
 こちらを、相も変わらず見ようともしないくせに、文吉に気が付いていたかのように答えを返す。
 ふん、と、勢いの良い溜息を吐き出して、文句の一つも言ってやろうかと、街道を外れて傍まで近づいた。
「壮太様は、また店をおサボりで?」
 桜の下で、のほほんと絵を描くのが仕事なら、世の中の画家は浮かばれまい。
「サボりとは酷いなあ」
 ようやくこちらを見たこの男は、文吉の雇い主である呉服屋の長男坊だ。
 文吉は、どうもこの人物が好きにはなれないのだが、何故かこの男、女性にはモテた。
 店は次男の次郎太が継ぐことになっていたが、なんにせよ、めったに店に顔を出さない壮太が店先に出るだけで、女性客が溢れかえる。
 つくづく、世の女性達は男を見る目がないものだと、文吉は思う。
 こんないいかげんで風来坊で、何を考えているのかまったく分からない男より、次郎太の方が、よほど頑張り屋でしっかりしていて頼りがいがあるのに。
「何を描いているんです?」
 壮太の趣味は絵を描くことだったが、別段画家になりたいわけでもないらしい。それでも、こうして絵を描く姿を見かけることはしょっちゅうだった。
 文吉は、壮太は苦手だが、壮太の描く絵は好きだった。
 まだ小さくて背が届かないので、背伸びをして画板を覗き込む。
 すると。
「おや。見てはいけないよ」
 ひょい、と、画板を退けられてしまった。
「何故ですか?」
 ムッとして、文吉は壮太を睨んでみる。
 さらにつま先まで伸ばして、精一杯身長を伸ばせば、ちらりとだが、目の前の枝垂桜の下で、川面を見つめているのか、風景の中に佇む女の絵を見ることができた。
「だめだよ、文吉」
 笑いながら、また、ひょいと画板を退けられてしまったので、描かれた女の顔までは見ることが出来なかったのだが、意地悪をする自分の主に、ついつい、ムッとしてしまった。
「なんでですか?美人さんじゃないですか」
 ムッとしたついでに、つい、口をついて嘘が出た。
 実際、枝垂れ桜の下には誰もいないのだが、女タラシの壮太のことだ。きっと綺麗なモデルでもいるのだろう。
 壮太はきょとん、とした後、急に、やれやれ、仕方がない、といった風情で、文吉を見下ろした。
「見てしまったのかい?」
「ちょっとですけど。隠すことはないじゃないですか」
「あまりこの女を褒めると、呪われてしまうよ?」
 にっこりと、微笑みながら言われるのが、また悔しい。
「また、俺をからかって」
 頬をぷっくりと膨らませれば、先ほどから壮太の足元で丸くなっていた犬の灯子が、するりと擦り寄ってくる。
「からかってなんかいないよ。お前はもう少し人を信用したらどうなんだい?」
 灯子の頭をなでてやりながら、文吉はさらに頬を膨らませた。
「呪われるなんて言われて、信用なんか出来ません。もう、いいです。俺、帰ります」
 くるりと踵を返せば、壮太がぽりぽりと頭を掻いた。
「ああ、使いの途中だったのか。引き止めて悪かったね」
 文吉が勝手に足を止めたのだから、気にしなければいいのに、こうして謝ってくるのは、人が良いのか悪いのか。
 文吉は、見えないように溜め息をつきつつ、もう構わず店に向かって歩き出した。
くうん
 灯子が一声鳴いた。
「どうしたんたい?」
 壮太は、しゃがんで頭を撫でてやる。
 黒い瞳を潤ませて、灯子が心配そうに、文吉の小さくなってゆく背中を見つめている。
「うん、困ったねえ」
 灯子の頭を撫でながら壮太はしゃがみこみ、自分の描いた絵を見やった。
「憑いて行ってしまったようだねぇ」
 壮太の画板の上には、川野辺に立つ枝垂桜が一本だけ、物足りなさそうに描かれた和紙が一枚、文鎮で止められていた。
 ふうっと、軽く風が吹く。
 するりと、背中に何かが擦り寄って、壮太は立ち上がった。
「やれやれ、どうしようか?」
 背中に向かって話しかければ、少女らしい、甲高くてころころとした声が発せられる。
「今の、今回の?」
「そう。艶子に教えた娘なんだけれど。困ったねえ」
 あんまり、困ったようには見えない顔で、それでも腕組みなぞしてみる壮太に、おかっぱ頭の少女が寄りかかって、一緒になって文吉の歩いて行った道を見やった。
 艶のある黒髪に、大きな黒目、黒いワンピースに黒い靴下、黒い靴。全身黒尽くめの少女は、ひょいと壮太の画板を覗き込んだ。
文吉よりは身長があるので、彼女は容易に、壮太の絵を見ることができた。
「あらあ。綺麗に抜けちゃって」
 文吉が見たはずの、枝垂桜の下に立っていた女の姿は消えてしまって、その部分だけが切り取られたかのように真っ白だった。
「憑いて行っちゃったんじゃ仕方ないわね。まるっと貰い受けに行くかしら」
「それって?」
「警告したのに、憑いていかれる様な事をした方が悪いわ」
「うーん。あの子、うちの店子なんだよなあ」
「取っちゃまずいの?」
「艶子。君は時々発言が過激すぎやしないかい。閻魔様に叱られてしまうよ?」
 二人の会話は、他人が聞いたら何の話をしているのかさっぱりだったが、どうやら二人の間では成り立っているようで、おしゃべりをしながら灯子を連れて、のんびりと歩き出した。

「文吉、只今戻りましたあ!」
 声を張り上げれば、土間から女中のおみよが顔を出して、手招きする。
 使用人用の玄関から土間へは引き戸で繋がっていて、土間は台所に繋がっている。大勢の飯炊きをする場合は、土間も台所になる。
 使用人は、みなこの土間の、大きな食卓で飯を食う。
 この店の奥方である彰子が、便利だから、の一言で、旦那様の彦江門を黙らせて、食卓を入れてしまった。
 実のところ、呉服問屋円屋は、彰子が仕切っているといっても過言ではない。
「お疲れ様。腹が減っただろ」
 見れば食器は片付けられて、他の使用人達は朝飯を済ませてしまったようだった。
「ちょっと待ってておくれね」
 いそいそと、台所へ消えるおみよの背中を眺めて、文吉は食卓に着いた。
 いつもは賑やかなのに、一人で居ると、なんだか食卓が普段の倍は大きく見える。
 目端に、女物の着物が見えた気がして、ふと見やれば、壮太がいた。
 女物の着物が見えた気がしたのは気のせいか。
 壮太は変らず、灯子を足元に侍らせている。
 それよりも、自分より後から来た筈なのに、何故既に此処に居るのだろうか。
 そちらの疑問が先立ってしまって、文吉は先程見えた女物の着物が、壮太の描いた女と同じ臙脂色の着物だったことに気付かなかった
「奥様が皆にね」
 着物の上から襷を掛けたおみよが、いそいそと持ってきたのは、餡子の代わりに魚のすり身と細かく切り刻んだ野菜を混ぜた肉団子の入った餅だった。
「あと、ちゃんとご飯もあるからね」
 そう言って、またいそいそと台所に消えた。
 おみよは気立ても良くて、美人とはいかないが、愛嬌のあるかわいらしい顔をしている。働き者で、皆に好かれていた。文吉も、姉のように慕っている。
「おや、美味そうだね」
 壮太が餅を覗き込んでくるので、文吉は慌てて口に入れた。
「駄目ですよ、壮太様。女将さんに言い付けますよ」
 ひょい、と顔を出したのはおみよだ。手には焼き魚と味噌汁に粟飯の椀を乗せた盆を持っている。
「はい、文吉。お待たせ。お腹が空いただろ?」
 言いながら、その盆を、文吉の目の前に置いた。
「朝から豪勢だね」
 餅が出た時点で豪勢なのに、ちゃんと味噌汁と飯が出る。
「女将さんが、昨日試作で作ってみたんだって。で、せっかくだからって、皆にくれたんだ」
 てきぱきと動きながら、おみよがいつもと違った朝食の説明をする。
「お袋さまが?」
 不思議そうな、壮太の声。
「そうですよ。女将さんが作ったんです」
「僕、貰ってないんだけどなあ」
 食べたそうに、文吉の餅を見つめる壮太に、おみよはくすくすと笑った。
「壮太様が悪いんですよ?女将さんに何にも言わないで、灯子と出掛けるから」
「じゃあ、僕の分は朝飯もなさそうだなあ」
 にっこりと微笑む壮太に、文吉は呆れた。
 おみよが、壮太の朝食を、残しておかないわけがないのに。そもそも、女将さんだって、何だかんだと文句を言いはすれど、この厄介な長男坊を可愛がっている。
「次郎太様が不憫だ」
 そんなことを思ってしまう文吉だったが、女将が壮太ばかりを贔屓するかといえば、そうではない。
 しっかり者というよりは、剛の者という言葉がしっくりする女傑である。本人の前で、可愛がるような素振りは一切見せず、ビシバシと、当の次郎太を引き合いに出して辛辣な言葉を浴びせることのほうが多い。
 文吉が次郎太を哀れむのはお門違いなのだが、壮太を嫌っている分、文吉はどうしても偏った考え方をしてしまうらしかった。
「あれ?」
 目端に、また、女の着物が見えた気がした。
「おかしいな?」
 眼を擦って、見えたと思った方角を見てみると、今度はそこに黒猫がいた。
 長い尻尾をぴんぴんと跳ねさせて、音もなくスイスイと歩く、小さめの綺麗な黒猫は、そのまま灯子を他所に、つい、と、壮太の足元に擦り寄った。
「おや、艶子も来たのかい?」
 壮太が言えば、
なーう
 と答える。
 灯子が小さく、
くうん
 と鳴いた。
「どれ。艶子がいるなら、灯子が怖がってしまうからね。僕は退散するとしようか」
 壮太がそう言って、土間から上がろうとすれば、艶子と呼ばれた黒猫は、その壮太の足を、かぷりと齧った。
「あいたたっ。痛いよ、艶子」
「うわん!」
 壮太が飛び跳ねれば、灯子が艶子に向かって吠え、艶子は毛を逆立てるでもなく壮太の足を離した。
 見れば、壮太の足首には、しっかりと歯形がついてしまっていたが、文吉は呆れて見るだけで、おみよが慌てて塗れた手拭いを壮太の足にあてた。
「ありがとう、おみよ。僕はいいから、文吉の世話をしておいで」
 おみよから手拭いを受け取ると、心配そうに擦り寄る灯子の頭と、パタパタと尻尾を不機嫌そうに振る艶子の頭とを、交互に撫でた。
「壮太様の分も、ご飯ありますからね」
 おみよが、子供を叱り付けるように言いながら、自分の腰に手を当てる。
「ああ、分かっているよ。ここで食べさせてもらうつもりだったのだけど」
 壮太は、まだ痛むらしい足をひょこひょこと引きずりながら、土間から上がるのをやめ、母屋から出て自室のある離れへ向かう。
「あとで、部屋に持って来て貰っても良いかな?」
 途中で振り向いて、見送るおみよに聞けば、おみよは笑いながら頷いた。
 足元にまとわり着く灯子に躓きそうになる壮太が、可笑しかったらしい。
「おや、お前さんは残ったのかい?」
 おみよが語りかける先を見れば、黒猫が、まだその場に鎮座していた。
みゃあうう
 おみよに頭を撫でられて、気持ちよさそうだ。
「おまえさんにも、何かあげられるかな」
 楽しそうに台所へ向かうおみよが消えると、黒猫は文吉の傍まで歩いて来た。
「お前、艶子といったか。壮太さまのところには行かないのか?」
 文吉の足元に座り込み、じっとこちらを凝視する黒猫に、文吉は何だか薄ら気持ち悪くなる。
 魚のおこぼれが欲しいのかと、切れ端を与えてみるが、見向きもしない。
「なんだ、こいつ」
 ぼそりと呟き、魚の最後の一切れを口に放り込み、女将特性の餅をほおばった。
「ごちそうさま!」
 勢い良く立ち上がり、小さな体で食器を片付けると、もう、黒猫の存在は忘れてしまったように、パタパタと店の方へと走っていった。
「慌てると転ぶよ!」
 壮太用の朝飯を、盆の上に乗せたおみよの声を背中に受けつつ、手を振って持ち場に戻って行く。
 その後姿を、猫の艶子がじっと見つめていた。