殊更に、ゆっくりと庭を歩いて進む。
 足元には、いつの間にやら付き添って、灯子がいる。心配そうに見上げてくる頭を撫でて安心させてやれば、ぺろりと指先を舐められた。
「艶子?」
 呼びかければ、道の脇の、庭木にしている紅葉の上から、黒猫が飛び降りた。
「もう来たのね」
「それだけ、紋二郎がお静を大切にしていたってことだろう」
 腕を組み、顔にはいつものうっすらとした笑顔。壮太の飄々とした風情は、こんな時でも変わらない。
「それで?肝心のお静は?」
 丑三つ時に、壮太の部屋へ押し掛けて、自分の姿絵を頼んだ幽霊。その真意は分からないが、壮太は兎に角絵が描ける事を純粋に喜んでいた。
 眠ったまま体を使われていた文吉は、あの後、壮太が使用人部屋へ連れて行き、彼の布団の中に、何も知らずに納まった。
 これを本人が知ったら、卒倒してしまうかもしれない。
「朝方、彼女の力が弱まってしまうまで描き続けたからね。文吉はちょっと疲れているかもしれないから悪いんだけれど。次郎太に頼んでおいたから、もう直ぐ来る筈だよ」
「ふうん」
 艶子は何だか不満そうだ。
「どうしたの?」
「だって、せっかく壮太に絵を描いてくれって言って来たのだから、いっそ壮太の絵で縫い止めちゃえば良いのに」
 今回、壮太はお静に頼まれたとおり、彼女の姿絵を描いた。彼女を、いつものように縫い止める事も出来たがそれはしなかった。
「いやあ、でも、縫い止めたら文吉に影響があるだろうし」
「知っているわよ」
「閻魔様にも叱られるし・・・?」
 それはそうなのであるが。壮太がお静を縫い止めてしまえば、くっついてしまっている文吉まで縫い止めてしまう。それで、二人を引き離せれば問題はないが、取り憑かれているということは、魂がくっついてしまっているという事だ。それを無理に引き裂くとなれば、色々と弊害が出るかもしれなかった。
 なにせ、試してみた事がない。何が起こるか分からないなら、やらない方が無難である。
「分かっているわよ」
「じゃあ?」
「あんたのそのお人好しな所と、どうでも良い事に燃やす情熱に腹が立っているだけの事よ」
 別に、泣き止まないお静相手に、彼女の姿絵なぞ描く必要はなかったし、お静そのものが既にこの世の人ではないのだから、描いたところで、その絵を彼女があの世へ持って行くとなると、せっかく描いた姿絵を、燃やしてあの世へ送ってやらねばならなくなる。
 意味があるのかないのか。分からない上に、描き上がるまで、やれ何色の顔料だ、水だと壮太が動き回るものだから、丑三つの時間から艶子は寝ていないのだ。
 それは灯子も一緒だが、彼女は慣れているのか、平気そうだった。
「それについては申し訳なかったよ。後でお詫びをするから」
「新しいワンピースが良いわ」
「はい。了解いたしましたよ。お嬢様」
 にこりと笑う壮太に、艶子はまた不機嫌になった。
 円屋の女性客ならイチコロなのだろうが、艶子はこの笑顔が嫌いだった。
「さ、着いたよ」
 朝、彰子から草履を投げられた垣根を越え、入り口の門をくぐり。
 茶室に辿り着けば、紋二郎が縁側の前で右往左往していた。
「紋二郎さん?」
 声を掛ければ、ぱっと振り向いた。
「ああ、壮太さん!」
 ほっとしたような顔で、駆け寄ってくる。
「中に上がって待っていて良かったのに」
「いやあ、お恥ずかしながら茶室なんて初めてで、一体どこから上がれば良いやら」
 恥ずかしそうに、短い散切り頭に巻いた手拭を取って頭を下げる。
 そうは言うものの、家主不在で上がり込むのは気が引けたのだろう。
 壮太と違って、人好きのする笑顔をする男だ。
「今日は、何ぞお話があるとかで?」
「うん。ゆっくり話もしたいし、渡したい物もあるからね」
 彼の爪や指先は、染物をしているために黒く染まっている。今日は青っぽいから、昨日は藍染めでもしていたのだろう。染料を扱う仕事柄、皮膚が染まってしまうのだ。
「正式な入り口は小さいから、家人も俺も、此処から出入りしているのさ」
 いつもの通り縁側から上がろうとして、障子戸を開け、…閉めた。
「壮太さん?」
「ああ、ごめん。昨夜の大風で部屋が凄い事になっていたのを忘れていてね」
 人が来るからと、昨日の夕食後、できるだけ片付けたのに、お静の訪問で全て無駄になっていた事を思い出した。
「済まないが、此処に腰を掛けてもらって良いかな」
「ああ、それは構いませんが。大丈夫ですか?」
「うん。いつもの風景に戻っただけだから」
 仕方がないので、二人と二匹は縁側に座る。
「あの?」
 先程から、やたらと感じる視線は、壮太と自分の間に箱を組んで丸くなる、真っ黒い猫のものだ。
 瞳も毛皮も真っ黒で、鼻の先まで真っ黒の、墨のような猫。
 艶やかな毛並みはとても綺麗で、黒耀の瞳は潤んで、真夜中の湖面を思わせた。
「綺麗な猫ですね」
「艶子かい?」
 その名前が、この猫にはぴったりだと思った。
「さっきから俺、見られている気がするのですが」
「見詰めているからねえ」
「そうですか」
 どう対応したものか、紋二郎は困り果ててしまう。
「失礼します」
 一際響いた子供の声に、紋二郎も壮太も、一緒になって顔を上げた。大きな盆を持って、文吉が門をくぐって姿を見せた所だった。
「お客様にお茶をお持ちしました」
 きょろきょろと、こちらを探している。少々不満そうな表情だったが、次郎太が上手く寄越してくれたらしい。
「ありがとう。こっちだよ、文吉」
 手招きすると、縁側に座るこちらに気が付いて、すたすたと近づいて来る。
 灯子から少し離れた縁側に盆を置き、持って来た薬缶で急須に湯を注ぎ、手際よく茶を淹れる。
 茶菓子を丁寧に小さい菓子皿の上に用意して、まずは壮太の客である紋二郎の脇に置く。次に、蒸らした茶を急須から湯飲みに注ぎ、やはり、客の紋二郎を優先して、受け皿を置き、菓子皿の隣に置いた。
 そうして、ようやく壮太の分を用意する。
 壮太も艶子も、お互いの顔を見交わした。
 予想に反して、文吉の様子に変化が見られない。
 確かにそこに、お静の気配がするのに。
 これは期待外れだっただろうか。
 ぺこりと頭を下げて、文吉が退出しようとした時。
「ありがとう。ご苦労様だね」
 紋二郎が、文吉に声を掛けた。
「え?」
 文吉は小さく呟いて、もう一度頭を下げた。と。
 壮太の客の男が、驚きに満ちた表情をしながら、自分に駆け寄るのが見えた。
「え、ちょっと、君?!」
 文吉は自分の体が倒れるのを自覚したが、視界が暗転して、あとは何が起こったのかも分からなくなった。
 紋二郎の目の前で、おそらくこの店の丁稚であろう子供が倒れ込む。
 咄嗟に飛び出したが間に合わない。そう思った次の瞬間、地面に小さなその体が直撃する寸前で、壮太が支え上げた。
 ほっと安心したら、力が抜けて、膝からかくりと座り込んでしまった。
「赤?いや、この色は」
 臙脂?
 座り込んだ直後に、ふわりと、子供の体から、見覚えのある色が翻った気がした。
「いや、でも、まさか?」
 臙脂なんて色は沢山町中に溢れている。
 でも、この色は。
「…お静?」
 その名を呟けば、彼女の細くてやわらかくて、マメを作っていたあの手が、自分の頬に触れた。
「お静?」
 姿が見えない。けれど、そこに彼女が居るのが分かる。
「お静、お静、お静!お静っ!」
 何度も何度も名前を呼ぶ。
 会いたかった人が、今、此処に居る。姿は見えずとも、彼女は此処に居る。
 それが分かるのに、抱きしめる事もできないのか。
 いや、そもそもそんなことは在り得ないではないか。彼女は既にこの世に居ない。
 自分は何を勘違いしているのか。お静を想い過ぎて、頭がどうにかしてしまったのかもしれない。
 ああ、それでも。
 ひと目で良い。

 会いたい。

「お静…!」
 紋二郎の頬を、暖かなものが伝った。
 悔しくて悔しくて、涙が止まらない。
 彼女の気配を感じたのに。現実は酷く残酷だ。
 会いたい人は、もう居ない。
「まったく、煩いわね」
 気付けば、黒いおかっぱ頭に黒いワンピース、黒い靴下に黒い靴。全身真っ黒な少女が、日本刀を携えて、こちらを見下ろしていた。
 黒くて大きな瞳は、あの真っ黒な猫を思わせる。
「ちょっとだけよ?」
 すらりと、黒い鞘から、綺羅と輝く刃を抜き。
 切られる。
 そう思って目を瞑ったのに、一向に痛みは襲って来ない。痛みの変わりに降り注いだのは。
「紋二郎さん、目を。目を開けて?」
 聞きたかった人の声。
 驚いて目を開けば、目の前に、満面の笑みを浮かべたお静の顔があった。
「ふふ。信じられない?」
 お静の声だ。
 紋二郎は、ゆっくりと顔を横に振る。
 死んでしまった筈なのに。もう二度と、会える筈も無かったのに。
 その笑顔。はにかむ様な、その仕草。
 紛れも無い、お静がそこに居た。
「どうしても、貴方に会いたくて」
 その言葉に、どきりとした。
「お、俺だって、あんたに、どれだけ、会いたかったか!」
 会って一言、言いたかった。どうしても、伝えたかった。
「すまねぇ。俺が、もっと早く気持ちを伝えていたら、あんたは死なずに済んだんだろう?」
 手を伸ばせば、温かみは無かったけれど。それでも触れる事ができた。
「違うの。私がもっと、皆の事を考えていたら良かったの。私が馬鹿だったのよ」
 お静の死で、悲しみ、傷付いた人がいる。茜屋の主人にも、迷惑を掛けた。
 先程から、お静は、笑っているのに涙を流したまま。
「私は馬鹿だったから、勝手に死んでしまったの。ごめんなさい。紋二郎さん。ごめんなさい」
「もういい。何も言うな」
 紋二郎は、お静を引き寄せた。
「何も言うな。何も言わなくて良いんだ」
 皆がお静を好いていた。お静も皆を好いていた。それだけで、彼女がどんな女性だったか、分かるだろう。
「私、貴方の事が好きなの。それだけ、どうしても伝えたかった」
 そう言って、お静は更に涙を零す。
「お静、俺だって伝えたかったんだ。俺だって、俺だって、あんたが好きだ!」
 紋二郎も、ぼろぼろと涙が溢れた。
「何だ。俺たち、両想いだったんじゃねぇか」
 こくりと、お静が頷いた。
 そうして、軽い、唇を合わせただけの、優しい口付け。
「ありがとう。私、幸せよ」
「俺も、お静みたいな別嬪に会えて、最高に幸せだよ」
 もう一度、口付けを交わす。
 二回とも、恋人というには足りない様な、触れるだけの。
 それでも、二人には充分だった。
 お静は目元を緩ませて、嬉しそうに笑った。
「さよなら。紋二郎さん」
「・・・・・・さようなら。お静」
 紋二郎の目の前で、紋二郎が贈った臙脂色のぼかしの着物が、すうっと消えた。
 臙脂の後には、日本刀を構えた、黒い少女が立っていた。
「う、あれ?・・・・うわあ!」
 文吉が、壮太の腕の中で目を覚まし、自分の置かれた状況に悲鳴を上げる。
「ああ、目を覚ましたかい?」
 自分の嫌っている人物が、何故自分を抱えて微笑んでいるのか。
「はははは、離して下さい!」
「うん、良いよ。俺も疲れたし」
 ぱっと両手を離されて地面に落ちたが、痛いのも構わず慌てて立ち上がる。
「失礼致しました!」
 必要以上に大きな声で頭を下げると、母屋へと駆けて行ってしまった。
「うん。大丈夫だったみたい」
「当たり前よ。ちゃんと離れてから切ったのだから」
 ちん、と、甲高い金属音を発てて刀を鞘に納め、真っ黒な少女は紋二郎を睨んだ。
「さて。協力ありがとう。何だか壮太から、ご褒美があるらしいわよ」
「え?」
 自分が呆けていた事にようやく気付き、紋二郎は艶子を眺めた。
 そういえば、自分はこの少女の持つあの真っ黒な刀で、切られたのではなかったか。
「紋二郎さん。大丈夫かい?」
 壮太に顔を覗き込まれ、紋二郎は目の焦点を合わせた。
「あ、ああ、済みません、えっと?」
 今此処で、お静と会ったと思ったのだけれど。
「夢?」
 ぽつりと、信じられない出来事に、あれは白昼夢でも見たのかと、お静の頬を触った感触の残る両手で、お静に触れられた気がした自分の頬を挟んで、紋二郎は呟いた。
「夢じゃないよ」
 その声に顔を上げれば、壮太が縁側に上がろうとしていた所だった。
「俺ね、お静さんに頼まれ事をされてね。君に渡したい物があるんだ」
 そのまま障子を開けて中に入り、がさがさと何かを探している。
「あ。あったあった」
 一人で呟きながら出て来ると、一枚の紙を差し出された。
「これ、は?」
「うん。君に渡してくれって」
 差し出されたのは、美人画だった。
 藍染めの、やはりぼかしの着物を着た女性。
「この着物・・・」
「うん。今、君が染めている着物」
 お静の供養にと、紋二郎が染めているあの着物が、描かれている。
 その着物を着て、はにかむ様に微笑むのは。
「お静」
「うん。お静さん」
 藍染めの藍は、魔除けも含み、その色は染を繰り返すほどに深く濃く、艶やかに。
「あの臙脂の着物は君が染めたんでしょ?」
「は、はい。お静に贈ったもんです」
 何故、この人はお静の着ていた着物の色が臙脂だと分かるのか。
「藍色って、臙脂より、お静さんに似合う色だよね。だから、こっちを描かせてもらったの」
 不思議に思う紋二郎の横合いから、壮太が自分の絵を覗き込む。
「これ、いつ?」
「今朝方。お静さんが描けって言うから」
 この着物は、確かに壮太に見せた。もう直ぐ仕上がる予定だ。
 これを染め始めたのは、お静が亡くなってから。
 だが、描かれた髪形は、簪までも、今さっき、自分が見たお静のそのままで。
「俺ね。あんまり信じてくれる人がいないのだけれど、見えるの」
 さらりと言った壮太は、にこにこと笑ったままだ。
「ありがとうございます」
 聞きたい事は山ほどあったが、自然に感謝の言葉が出た。
「お礼を言われるような事は、していないよ」
 仕事をこなしただけだから、と言って、壮太が、へらりと笑った。
「さ。せっかくうちの丁稚が持って来てくれたのだから、食べて行かないかい?」
 見れば、お茶とお茶菓子が縁側に並んでいる。
「あ。やられた」
 壮太の分が、すっかり綺麗に無くなって、湯飲みも皿も空っぽだった。
「艶子め」
 艶子とは、あの黒猫の名前ではなかったか。猫が、お茶と菓子を飲み食いするのだろうか。
「仕方ない。まあ、俺は朝食がいつもより多かったので、気にせずどうぞ」
 ぽん、と縁側に座って、壮太がぺたぺたと自分の横の床を叩く。
 あとは紋二郎が座るのを待つでもなく、自分の分のお茶を、やかんに残っていたお湯で淹れている。
 そういえば、あの真っ黒な少女はどこへ行った?
わん
 白い犬が、足元で吠えた。
「ああ、今、行きます」
 紋二郎はまだ自分が座っていなかった事に気が付いて、足を進めるのだが。
 何だか、現実味が無くて、ふわふわと浮いているようで、地に足が着いていないような感覚がある。
 そんな紋二郎を見て、壮太がぽりぽりと、申し訳無さそうに頭を掻いた。
「あー、当てられちゃったか。灯子」
がう!
「あいた!」
 白い犬が、紋二郎の足を齧った。
「戻った?」
 痛みに驚けば、確かに、ようやっと足が地面を踏んだような気がした。
「時々、当てられちゃって魂が半分体から出ちゃう人がいるからね」
「え?魂?」
 何の事だか。
「灯子にお願いして、君のふわふわ感を取ってもらったの」
 壮太の簡単な説明に、そういう事かと納得する。
 先程、なんだか感覚がおかしかったのに、痛みで元に戻った。
「済みません」
「誤る事じゃないよ。ほら、食べて食べて」
 大人しく壮太の隣に座り、好意に甘える事にする。お茶菓子は、朝である事も配慮したのだろう。醤油焼き煎餅だった。
 隣でにこにこと笑顔を絶やさない壮太と、他愛無い会話を交わしながら、本当に不思議な人物だと、紋二郎は思った。
 彼の、この世ならぬ者が見えるという体質も、渡された美人画も。
 この、飄々とした風情も。
「今日は、本当にありがとうございました」
「だから、お礼を言われる事は何もしていないから」
 もう一度礼を言っても、同じ様に返されて、紋二郎はくすくすと笑った。
「俺、頑張って一人前になります」
「おう。頑張れ」
「また、お邪魔しても良いですか?」
「いつでも」
 女性達が、彼の周りに集まる理由が、なんとなくだが分かった気がする。これは、本当に男という生き物が鈍過ぎるのか、女性という生き物が鋭過ぎるのか。
 一見何を考えているか分からない様で、彼の傍は、なんとも心地が良い。
「ありがとうございました」
「だから、何もしてないってば」
 何度も礼を言って、何度も同じやり取りをして、紋二郎は店へと帰って行った。
 胸にしっかりと、お静の姿絵を抱えて。