「朝ですよ!壮太様!」
 突然、ばたん、がたがたと、けたたましい音を発てて障子が勢い良く開く。
 眩しい朝日と共に飛び込んで来たのはおみつだった。
「うう、寒い」
 がっしりと、灯子の背中に抱きついて起きようともしない壮太の掛け布団を、おみつは乱暴に剥ぎ取った。
「さあさあ、起きて下さい。今日は何だか知りませんが、女将さんが張り切ってご飯を作っていますよ。遅刻してもおみつは責任を取り兼ねます」
 困った顔の灯子を、それでも離さない壮太に、堪忍袋の尾を切らしたおみつは、力任せに敷き布団を引き抜く事で、壮太を起こす事に成功する。
 背中から敷き布団を斜めに持ち上げられ、慌てた灯子ごと体全部がごろんと畳の上に転がり落ちると、ようやく壮太はむくりと起き上がった。
「はい、手拭です。次郎太様に持って行く様に言われましたので」
 おみつは手際良く手拭を円屋の長男坊に手渡し、布団を纏め、灯子の頭を撫でると、嵐のように去って行った。
「うう?」
 手拭を持ったまま、呻く壮太の足元を、するりと柔らかな感触がすり抜ける。
 おみつが障子を開いたまま出て行ったので、そのまま黒猫が縁側に出て大きな伸びをした。
わん!
 ちょこんと傍らに座って、見上げて来る灯子の顔を見下ろし、壮太はようやく、頭がはっきりし始めた。
「ああ。朝か」
「寝惚けるにも程ってものがあるわ」
 こちらを見もせず、黒猫から辛辣な科白を浴びせられ、へらりと笑う。
「さて。顔を洗いますか」
 固まった手足を伸ばし、縁側から下駄を履いて外に出れば、冷たい綺麗な空気が体を包む。
 昨夜の強風の為、庭は燦々たる有様になっているだろうと思ったが、季節は春になりたてで、葉が散るでもなく、実が落ちるでなく。
 少々庭木の細い枝が散らかっているだけで、大した事にはならなかったようだった。
 ばしゃばしゃと顔を洗い、身支度を整える。
「あれ?おみつ、何か言っていなかったかな?」
 忘れてはならない事を、何か言われていた様な気がして、考え込みながら下駄を履けば、茶屋の入り口の垣根から、草履が飛んで来て、せっかく洗ったばかりの顔に見事ぶち当たった。
「何してんだいこの馬鹿息子!」
 怒鳴り込んで来たのは自分の産みの親。
「母さん?」
 顔に当たった草履を手に持ちながら、呆然と呟けば、とっくに門をくぐった彰子に耳を摘まれた。
 そうだった。おみつは「女将さんが朝ご飯を作っている」と言わなかったか?
 思い出しても既に遅い。
「返しな!」
 耳を掴んだまま、彰子は器用に息子から奪い返した草履を履く。
「まったく、せっかくおみつを呼びにやったのに、見に来ればようやく下駄履いてそのまま固まっているとは余裕じゃないか」
 母は耳を引っ張ったまま、息子を母屋へ連行する。
「母さん母さん、痛い、耳が痛い」
「痛い様にしているのだから、当然だろう?!」
 その二人の後を、灯子がおろおろと着いて行く。
「ああ、灯子。心配おしでないよ。ちょうっと懲らしめて、朝飯を食うだけだから」
 にっこりと、彰子に微笑まれては、灯子も引き下がるしかない。
 足を止めれば、壮太を引き摺ったまま、彰子が振り返った。
「何してんだい?灯子にも美味しいご飯があるのだから、あの黒猫と一緒に着いておいで」
 一瞬、きょとんとした灯子だったが、後ろを振り向けば、艶子が居た。
わん
 艶子に、文字通り一声掛ければ、走り寄って来る。
 灯子は艶子が苦手だが、嫌いではない。
 この世ならぬモノに反応してしまうのは、本能なのだから仕方がない。
「おや。姉妹みたいで良いじゃないか」
 彰子に優しく微笑まれ、灯子はまだ母親に耳を引っ張られている壮太を見やった。
 ・・・・・泣きそうな顔だった。
「さて、今朝は風が強くて目が覚めちまったからね。ついでに色々作ったのさ」
 食卓に着けば、住み込みの従業員達は既に食べ始めていた。その横を、耳を引っ張られながら通り過ぎる。
「母さん。申し訳なかったから、耳を離してくれないか?」
「やなこった」
 無下に断られる。
「ああ、マツ!この子らに朝飯やっとくれ!」
 土間から上がる前に、彰子は家の中に入れない灯子のために、特製の朝食を出すように指示を出してくれる。灯子は心配そうにこちらを見ていたが、持って来られた朝食に気が付くと、つい尻尾を振ってしまっていた。
 後は艶子と並んで、白いご飯の上に焼き魚とカツ節と、ほろほろに炒られた卵が乗った、芋汁のかけられた贅沢な朝食を、喜んで食べるのだった。
「うう、灯子ぉ・・・」
 情けない声を出した壮太だったが、灯子は別に悪くはないので、ちょっと涙を流してしまうくらい耳が痛くても、どうしようもないのだった。
 家族での食卓に着いて、ようやく耳を離してもらえたが、じんじんと熱く疼いて、しばらくは触れそうにない。
 次郎太が、笑いを堪え切れず、自分とは違った涙を零しているのを、彰子にばれない様に、こっそりと睨んだ。
「さて、ようやく家族が揃った事だし、頂こうかね」
 妻と長男が座った所で、彦衛門が、両手を合わせた。全員がそれに習う。
「頂きます」
「「「頂きます」」」
 一斉に、食事の挨拶を交わす。
 おみつの言葉通り、本日の朝食は贅沢だ。
 朝から芋汁には鶏肉が入っていたし、焼き魚にお新香はもちろん、緑黄色野菜に卵を絡めて炒めた物、蕪の田楽と、さっぱりはしているものの、朝からこの量を食べ切れるだろうか。
「ああそうだ。兄さん」
「何?」
 蕪に箸をつけて割りながら、次郎太が話し掛けて来る。
「昨日話した染物屋だけど、今朝方お使いの子が来てね」
 昨日話した染物屋といえば、お静の見合い相手になる筈だった紋二郎が居る町田屋しかないので、壮太は魚を頬張ったまま、顔を上げて次郎太を見やった。
「どうも、とっとと話を進めたい様で、朝食が済んだらこちらに向かうそうだよ」
 口の中の物を飲み込んで、お茶で胃の腑へ流す。
「それはまた・・・」
 随分と行動が早い。
「例の職人が落ち着かなくって困ってしまったらしくてね。兄さんも、さっさとご飯食べて、準備したら良いと思うよ」
「分かった」
 兄弟のやり取りに、彰子は目を丸くした。
「染物屋って、壮太お前、何やらかしたんだね?」
「やらかしたって・・・・、母さん」
 今度はその母子のやり取りに、次男坊と父親が笑い出す。
「彰子、壮太が染物相手に何をやらかすっていうんだ。相手は職人と言ったじゃないか。女の子でなければ、早々問題は無いだろうよ」
「そうだよ。女性問題で揉め事を起こすのは兄さんの得意だけれどね。絵付けに使う顔料が欲しいのでしょ?兄さん」
 笑いながら涙目であるが、それでも次郎太は壮太の味方だった。
 さり気なく、本来の目的を誤魔化してくれる。
「いやいや、女性問題って。俺がいつ、そんなに女遊びをしたんだよ」
 ここぞとばかり、壮太は話題をずらしたつもりだったが、ずらした話題に、彰子までもが笑い出した。
「ああ、そうだったね。お前は女遊びなんか、これっぽっちもしてやしないのだったね」
 その通りだ。遊郭自体解体されているし、女遊びなどというものは、実はトンと縁がない壮太である。ただ、いかんせん本人が女性の気を惹きすぎるのだ。
 壮太にその自覚が無いのだとしても。
「悪かったよ。またぞろ、染物屋の娘さんなんかがお前に惚れでもして、騒ぎになっているのかと思ったのさ」
 確かに、そういった騒ぎは日常茶飯事だ。
「俺は灯子しか口説いたことはありませんよ」
 実際そうである。しかし女性というものは独占欲の強い傾向にあるらしく。
 歌舞伎役者みたいに遠くから見ている分には良いのかもしれないが、壮太は只の呉服問屋の長男坊である。身近であるのがいけないのか。
「俺の意思に関係が無く騒ぎが起きるのだから、仕方がないでしょう」
 むっつりと不機嫌に、壮太は芋汁を掻き込んだ。
 壮太本人にも、こんなどうしようもない生活をしている自分を、何故女性が構いたがるのか分からないのだから、始末が悪い。
「もてる男は辛いね。兄さん」
 そう言う次郎太も、壮太の所為で目立たないだけで、目のある女性に人気がある事は、一家の誰もが知る所だ。
「まあ、分かったよ。早々に準備をするから」
「僕も出来るだけ手伝うけれど、文吉、要るかい?」
「要るよ。確保しといて」
「分かった」
 兄弟で進む会話に、両親は顔を見合わせて、後は関わらない事に決め込んだらしい。
 それに気付いて、ありがたいと思いながら、壮太と次郎太の会話も、そこで途切れたのだった。
「ああ、朝から良く食べた。母さんの料理は天下一品だからねえ」
 ふくよかな腹を撫で、彦衛門が茶を啜る。
「昨日も、肉入りの餅を作っていたでしょう?禄に寝ていないのじゃありませんか?」
 心配する次男坊に、彰子はにんまりと笑う。
「大丈夫さ。今朝は風の音で目が覚めちまったがね。昨日は、手の空いた時に下拵えして、蒸かすのは朝方台所の皆に頼んでやってもらったから」
 仕事に手を抜けないのだから、体調は万全に。でも、趣味の料理もそこそこに。
 彰子の計画性の良さは、拍手物だ。
「ご馳走様」
 最後まで食べていた次郎田が箸を置いた時だった。
「壮太様」
 部屋の向こうで、遠慮がちなおみつの声がした。
「大丈夫だよ。どうしたんだい?」
「町田屋の職人さんが来てなさいます」
 早い到着に、彼の想いが伝わるようで、壮太は一つ溜息を吐く。
「わかった。俺の部屋まで、案内をしてやってくれるかい?」
「承知しました」
 そう言うと、襖の向こうの足音が小さくなって行くのが聞こえた。
「なんだ、随分と性急な職人じゃないか」
「腕が良いらしいですし、仕事も速いらしいですからね。何事も素早いのでしょう」
 立ち上がりながら次郎太を見やれば、にっこりと手を振られた。
「じゃあ、お先に済みませんが」
 壮太はそのまま、行き交う使用人たちの間を縫って、自室のある庭へ降りて行った。