「それで?」
 道すがら、簡単にだが、文吉の体験している怪奇現象の説明を聞く。
「文吉に取り憑いているのは、この前、川辺の枝垂桜の下で発見された茜屋のお静で、彼女の着物の端が文吉には見えているって事だよ」
「それは分かりましたが、お静さんが何故年端も行かない文吉なんぞに取り憑くのかな?」
 それはもっともな疑問だ。
「朝、俺と会った様な事を、文吉は言わなかったのか?」
「いいえ?ああ。そういえば、文吉は朝早く使いに出ていましたね。兄さんと会ったのですか?」
 何故自分と会った事を言わなかったのかは、壮太が文吉に嫌われているからだろう事は予想がついた。
「ほほう?」
 人の悪い笑みを浮かべて、壮太は今度、とことん文吉をからかってやろうと決めた。
「あの枝垂桜の下で、お静を描いていたら、文吉が通りかかったのさ。見るなというのに、画板を覗き込もうとするから困ってね。注意をしてやったら何を思ったのか、文吉の奴、俺の描いたお静を、美人だと言ったんだ。後姿を描いていたのだから、顔なんか見られるはずが無いのに」
 壮太は、今度はにっこりと笑った。
「あー、大体ですが、なんとなく分かりました」
 茜屋のお静の事は、次郎太も話に聞いている。
 醜いと言われて死んでしまったような女性が、子供とはいえ美人と言われて嬉しかったのだろう。それで、文吉にくっついてしまったのか。
「なんとかなりませんかね?」
「なんとかするさ」
 そうでなければ、俺が艶子に叱られる、という続きの文句は飲み込んで、壮太は自分の足元に、きちんと着いて来る灯子の頭を撫でた。
「ああ、そうか」
 唐突に呟き、兄弟で肩を並べて歩いていた壮太が足を止めた。
「何です?急に止まらないで下さいよ」
 数歩前に出てしまった次郎太が、ぱたぱたと戻ってくる。
「唐突に一人で呟いた上に足を止めないで下さい」
 何か言いたい事があるのかと、聞こうと思って戻って来たが、それが分かっているのかいないのか、壮太は構わず話を続ける。
「まあ、それで、物は相談なんだが」
「ほんっとうに唐突ですね兄さんは」
「そうかな?でも唐突に思いつくのだから仕方が無いだろう?」
 悪びれもしない壮太に、次郎太も諦める。
「明日、紋二郎にうちへ来いと言ってある」
「それもまた唐突ですね」
 次郎太は、笑っていない笑顔を顔に張り付かせつつ、唐突三昧にさっさと事を運んでいたらしい兄に、嫌味たっぷりに呟く。
 もちろん、効果が無い事は端から承知の上だ。
「それで、紋二郎が来たら、文吉と引き合わせて欲しいのさ」
 案の定、呟きは綺麗さっぱり無視された。
「引き合わせるって、何故です?」
「それは、お楽しみ」
 満面の笑顔で返されれば、疑いたくなるというものだ。
「何ですか。言えない様な事ですか」
「女心は一途だねっていう事さ」
「訳が分からないのですけれど」
「兎に角、文吉の為でもあるのだし、あの子が俺の言う事なんか聞きゃしないのは分かっている事だろう。次郎太にお願いするしかないのだから、頼んだよ」
「勝手に頼まないで下さいよ」
 ぽん、と、肩に手を置かれ、勝手に決め付けられた。
 それでも、文吉の為と言うのなら、仕方が無いか。
「分かりました。文吉を確保しときましょう。でも兄さん。これは一つ貸しにして置きますからね?」
「はいはい。分かっていますよ」
 ひらひらと手を振りながら、今度は壮太が先に立って歩き始めるので、次郎太は、肺から盛大に溜息を吐いて、兄の後を追った。
「灯子は、何でこんなのが良いのだい?」
 艶子と同じ事を言って、次郎太は壮太の傍を歩く灯子を困らせるのだった。

 その日は、夜明け前から何だか風が強かった。
 壮太が、がたがたと風で鳴り止まない障子に起こされたのは、早朝である。
 否。
 世界がうっすらと白く光り始める朝と夜の間の時間と言った方が良いだろう。
「灯子は、怖くないかい?」
 自分の隣に、丸くなっている白い犬の頭を撫でると、ぺろりと手を舐められた。
「ふうむ。困ったね」
 そんなに困った風でもなく、壮太は布団の中から顔だけを出して、きょろきょろと自室を見回した。
 部屋の奥の作り棚の上には、艶子の目が光っている。
「確か、今日よね。紋二郎と文吉を引き合わせるの」
「そうだけど?」
 苛々したように、艶子が障子戸の向こうを睨む。
くうん
 灯子が顔を上げて、障子戸から目線を離そうとしない。
「彼女は、今日の事、知らないはずなのだけれどねぇ」
 壮太はやれやれ、と言った風に呟いた。
 白くなり始めた屋外は、もう直ぐ清浄な空気に満たされ始めるだろう。
「・・・・・何か、俺に用事かな?」
 上体を起こして、壮太が障子の外へ向けて話し掛けた。
「確かに今は丑三つ時とも言うからね。君らが動きやすい時間だろうけれど、こんな時間に女性が男の部屋へ訪問とは、感心しないな」
 ざわざわと、風で大きく枝を揺らし、庭木の枝は、今にも折れてしまいそうだ。
 そう思った瞬間、がたがたと鳴っていた障子戸が、す、と開いて、風が室内を掻き回した。
「不躾だね」
 棚に仕舞われていた紙が、ばさばさと宙を舞い、壮太自身も、顔を腕で庇う。起き抜けの髪が乱れるが、そんな事には構っていられない。
ううーっ
 灯子が唸り、艶子が少女の姿をとって、壮太を背に、障子戸の前に立つ。
「悪いけど、今貴女を狩り取ってしまっても構わないのだけれど?」
 艶子が冷たく言い放つ。
 障子の向こう。縁側に立つのは、小さな少年の影と。
「泣く事はないじゃないか」
 はらはらと涙を流す、臙脂色の着物を着た年若い、まだ少女と言っても良いだろう、女。
 取り憑いた文吉の体を使い、お静がそこに居た。
「どういう事よ?これ」
 振り返らずに、布団から上体を起こしたままの壮太に、艶子が問いただす。
「俺に聞いても分からないよ」
 彼女がどうして此処に来たのか、何故泣いているのか。
 何かを訴えたいのだろうけれど、彼女は泣くばかりだ。
「文吉の様子は?」
 ふと、取り憑かれている少年の体が気になった。この暴風の中、寝巻きのままだ。
「ふん。ちゃんと草履を履いているし、目は瞑ったままだし。心配しなくても良さそうだけれど?」
 眠ったままの文吉を、そのまま連れて来たのらしいが、草履を履かせてくれたのは良かったと、壮太は変なところでほっとする。
 この風で、庭の地面は折れた枝や飛び散った何かの破片で、大変危険な事になっているだろう。
「ねえ。泣くだけじゃ分からないよ」
 問いかけても、彼女ははらはらと、涙を流すだけだ。
「あれじゃないの?壮太が見えるのを知っていて来ているのだと思うのよね」
「まあ、おおよそそうだと思うけれど」
 艶子の手の中には、彼女の持つ死神の刃が現れる。
 彼女のそれは、すらりと長く反りの少ない、世界で最も美しく、残忍で優しい刃。
 日本刀であった。
「久しぶりに見るけど、相変わらず綺麗だね」
「夜目でも利くのかしら。良く分かるわね」
 艶子の小さな手に握られたそれは、持ち主と同じで、柄も鍔も、鞘も黒。封印の紐までも、房の先まで真っ黒で、宵闇にまぎれてしまえば所在も分からなくなりそうだ。
「艶子、君は少しせっかちさんだね」
 早々に、柄に手をかける死神の少女を、暢気に引き止める。
「せいぜい二十年そこそこしか生きていない若造に、せっかちとか言われたくも無いのだけれど」
「艶子は年いくつ?」
「女性に年齢を聞くものではないのよ?」
 肩越しに、可愛く微笑まれた。
 目の前の幽霊よりも、母親の彰子よりも、この笑顔は怖い。
 すい、と、障子が閉まる。
 部屋の中に、お静が入って来たのだ。
 風が止み、舞っていた紙が、ばさばさと床に散らかった。
「何よ?」
 艶子が身構え、灯子が体を起こし、壮太の前に立つ。
 それにも構わず、お静は泣きながら文吉の体ごと進む。
 二人と一頭は、全く目に入っていないかのように、ゆっくりと文吉の足は動く。
 そしてふいに、文吉の体ではなく、彼女の姿が、しゃがみこんだ。
 泣きながら、床の上に散らばった一枚の紙の前で、彼女の動きが止まる。
「・・・それ・・?」
 艶子が覗き込めば、見覚えのある絵が、そこに一枚、画板に挟まったまま落ちていた。
「これ、君を描いた時の?」
 壮太が布団から抜け出して、画板を拾い上げる。
 目線の高さまで掲げてみれば、白み始めた外の明かりにうっすらと浮かぶ、先日の早朝、川野辺で描いた自分の絵。
 そこには、花をつけるのを、今か今かと待つ大きな枝垂桜と、その幹に寄り添うように立つ女の後姿が描かれていた筈だった。
 今は、枝垂桜の下に、女の姿は無い。変わりに、人型に染め抜いたかのような白。
 この人型に描かれていた人物は、今目の前にいる幽霊だ。
「せっかく描いたのに、君が文吉にくっついてなんか行くから、抜けちゃった絵じゃないか」
 それを聞いて、艶子はどういう言いがかりだと思う。
 壮太は絵にした霊魂を、絵にした場所に縫い止めてしまう力がある。それは、死神である自分達には有り難いが、縫い止められた方はいい迷惑だろう。
 お静は、その絵をじっと見つめた後、壮太の顔を見つめる。
「えっと?」
 壮太も、お静と、自分の描いたお静の抜け出た絵とを交互に見やってから、かっくりと、首を横に傾けて、しばし考える。
「もしかして?」
 何かを思いついたのか、壮太はじっと、お静の泣き顔を見つめる。
「壮太?」
 心配になった艶子が、壮太の背に手を触れた。
「うん。そうか」
 にへら、と、急に相貌を崩す壮太に、艶子は飛びのいた。
「気持ち悪いのだけど?」
「ああ、ごめん」
 へへ、と、今度は照れたように笑う。
「お静さんさ。俺に自分の絵を描いて欲しいのかな?」
 嬉しそうに壮太がお静の顔を覗き込めは、ゆっくりとだが、お静が頷いた。
「やっぱりそうか」
 少し興奮気味に喜ぶ、壮太の自惚れた予想は当たったらしい。
「俺が、君の見えるのを、枝垂桜で絵を描いていた時に気が付いたのかい?」
 壮太の質問に、またお静が頷いた。
「ずっと川面しか見ていなかったから、俺には気付いていなかったと思ったけれど」
 そう言えば、透けて見えるその両手で、そっと、文吉の肩を掴んだ。
「ああ、それで、気が付いたのか」
 何が何やら。
 喋らない幽霊、お静と、一人で納得する青年、壮太の間で、どんどんと話が進んで行く。
くうん
 寂しそうに、壮太の恋人が鳴いた。
「壮太。私と灯子にも分かりやすく話をしてくれるかしら?」
 ずい、と、壮太の喉下に、愛刀の鞘尻を突きつける艶子に、流石に壮太も、お静との会話にならない会話を止めた。
「お静さんは、俺に自分の絵を描いて欲しいのらしい」
「・・・・・・・何故そうなるのよ」
 艶子の眼差しは胡乱気だ。
「俺が枝垂桜の下にいた彼女を描いていたとき、文吉が話しかけて来た事は話をしたでしょう?」
 じっと、一人と一頭の眼差しを一身に受けながら、冷や汗を流して説明を進める。
「その時に、俺が自分の絵を描いている事に気が付いたらしくて。それで、文吉が俺の絵を見て、お静さんを美人だと言ったのが嬉しかったそうなんだ」
「まあ、それで今こんなに厄介な事になっているのよね?」
 その辺りまでの経緯は、おおよそ予想していた事であるので、今更肯定されても、事後確認をとっただけの様な。
「あの時は、彼女の顔を描くのは気が引けたのだけれど、お静さんは、自分の顔を、きちんと描いて欲しいというのさ」
「・・・・・・・・・・・泣き顔で?」
 なにせ、彼女はいまだに泣いている。
「笑顔で」
 へらりと笑われて、そんなことを言う壮太に、艶子は眩暈を覚えた気がした。
「絵を描いてやれば、文吉から離れてくれるのかしら?」
 一応、聞いてみる。
「さあ、そこまでは?」
 聞いた自分が間違っていた。
「灯子。こんな馬鹿は放っておいて、寝るわよ」
わん
 灯子は布団の上に丸まり、艶子はさっさと姿を黒猫に変えて、いつもの定位置である棚の上に飛び乗って、大きな欠伸を一つ。
「ちょっと、二人とも。冷たいなあ」
「泣き止んでからほざけって、そこの幽霊にも言っておいて頂戴」
 まったく、何のために閻魔の元にも帰れずに、自分がこうして壮太の傍に居なければならないのか。その理由を忘れ去ってしまっているような阿呆者は、この際同情する余地も無く放っておこう。
「まずは、そうだね。何でそんなに泣くのかな?」
 壮太の声が、明るくなり始めた室内に響く。
 清浄な朝の空気に満たされれば、幽霊であるお静の力は弱まるだろう。
「まったく、お人好しで困るわよ」
 ぼそりと呟けば、灯子だけが目線で頷いた。