「今日は、朝からおかしいのです」
 着物の裾を文吉に掴まれて、次郎太はつんのめった。
「これ。急に掴むものではないよ」
「あっ、済みません」
 振り向けば、顔を真っ赤にして、文吉がぱっと着物から手を離した。
 夕暮れ時。そろそろ兄の壮太を迎えに行かないと、またぞろあの部屋代わりの離れで、餅だの干し芋だのを食べて、夕食を済ませてしまうだろうと、店の片付けが終わるのを見計らって、庭へ出ようとしたところだった。
「どうかしたのかい?」
 兄の事は、父か母か、若しくはおみよあたりが呼んで来るだろうと決め付けて、次郎太は文吉の目線に自分のそれを合わせた。
「あの、朝から、おれ、変なものが見えるのです」
「変なもの?」
 文吉が、使いから帰ってずっと、落ち着きが無かったのを思い出す。
「何だい?言ってごらん」
 眉間に皺を寄せて、今にも泣き出しそうな文吉を落ち着かせようと、次郎太は勤めてにっこりと、優しく聞いた。
 変なものの類は、大概自分の兄が見つけて絵に描くか、眉間に皺を寄せて嫌そうな顔で通り過ぎるかなのだが、その兄と同じものが、この子供にも見えてしまっているのだろうかと、少し不安になった。
「赤い、臙脂色の着物だと思うんです」
「着物?」
 こくりと頷いてから、きょろきょろと、辺りを見回した。
「大丈夫だよ。誰もいないよ?」
 ここは店の裏にある庭の一角で、兄を呼びに行こうと出たばかりの、家族用の玄関の脇だった。
 使用人たちは、ここから少し離れた台所の傍にある使用人用の玄関を使うので、このあたりにはあまり近寄らない。
 古い家なので、格式ばった作りをしている円屋だが、彦衛門や彰子、もちろん次郎太と壮太の四人は、そういった古い格式には余りこだわらなかった。
 が、玄関だけは、使用人達と同じ玄関を使うと、下駄や草履が行方不明になったりするので、家人用の小さな厳つい玄関を利用している。履物は似たり寄ったりになってしまうので、良く間違えて履いて行かれてしまうのらしい。
 それは従業員達も自覚しているのだが、それでも良くお互いの履物を間違える。それがなかなか直らないので、終いには彦衛門が大工を呼んで、玄関に大きな下駄箱を作ったくらいだった。
 ちなみに、滅多に開かれることは無いので、普段は壁と化しているのだが、この家には偉い人が来た時用の玄関もあり、玄関だけで三つあった。
「朝、お使いから帰って来てから、良く臙脂の着物の端を、見るような気がするのです」
 誰も来ない事が分かって安心したのか、ぽつりぽつりと、文吉は俯きながら、自分の身の上に起こっている、些細ではあるけれども奇怪な出来事を話し始めた。
「目端に、臙脂色の着物の裾というか、袖というか。ちらちら見えるような気がするのです。始めは、気にもしていなかったのですが、見えたと思っても誰が着ているのか分からなくて。おれ、臙脂色の着物を着ている人を探したのですけれど」
 臙脂色などと、派手な色を着て仕事をするような従業員は、円屋には居ない。
 客商売である以上、客より目立ってはいけないし、祝い事でも有れば、それはまた別の話になって来るが、別に祭りがあるわけでも、誰かが還暦を迎えるわけでも何でもない。
 つまり、今この時期に、臙脂色を着る従業員が居るはずが無いのである。
「臙脂色なんて目立つ色、着ていたらさぞかしうちの店では目立つだろうしね」
 まあ、それでも、女性の好む色であることは間違いが無いので、もしかしたら客の中に臙脂を着ていた人物が居て、それを見ていたのではないかとも思ったが、文吉は違うと首を振る。
 食堂であったり帳場であったり、目撃した場所は、ほとんどが従業員か家の者しか入り込めない場所であるという。
 次郎太も、首を傾げて考える。
 今日一日、臙脂色の着物や洋服を見ただろうか?
「臙脂色か」
 本来であれば、祝い事にも使うめでたい色なのだが。今日は売り物以外で見た記憶が無い。
「皆には、聞いてみたかい?」
「聞きました。誰か着ている人を見なかったかって。でも、そんな奴見ていないって、皆に言われました」
 朝から文吉が、なんだか落ち着きが無く、そわそわしていた理由が目端に見えるという臙脂の着物だったことは分かったが、何だか謎が増えた。
「うーん」
 ぽりぽりと、次郎太は兄と違ってさっぱりと短くしている頭を、ぽりぽりと掻いた。
 原因の手掛かりが分からない。しかもチラチラ見えるだけというのはどういうことか。まるで、狐にからかわれてでもいる様で、まだ十二の文吉には気持ちが悪くて仕方が無いだろう。
「今日は一つ、我慢しなさい」
「えっ?」
 驚いた文吉の顔は、今にも泣きそうだ。
「文吉は男の子だろう?」
「それは・・・そうですけれど」
「今日はもう、ご飯を食べて、お風呂に入って寝なさい。明日までには、何か良い方法を考えておくし、もしかしたら、臙脂色が気になるのは今日だけで、明日の朝起きたら、見えなくなっているかもしれないだろう?」
 言い聞かせながら、安心させるように、次郎太は文吉の頭を撫でてやった。
「・・・わかりました」
「よし、良い子だ。文吉は男だね」
 褒めてやると、嬉しそうに笑った。しっかり者とはいえ、やはりまだまだ子供だ。
「ただし、明日になっても見えるなら、直ぐに教える事。いいね?」
「はい」
 しっかりと頷くと、夕食が整い始めた食堂へと走って行った。
 その文吉の背中を見守りながら、次郎太はまた頭を掻いた。そうして、結局、兄のいる離れへと足を向けたのだった。

「兄さん?」
 離れからは、芋の匂い。
 やっぱり、この兄は放っておいたら、干し芋だけで夕飯を済ませてしまっていたに違いない。
うわん!
「こんばんは。灯子」
 出迎えてくれた白い犬に挨拶をし、呼んでも出てこない兄の部屋の、縁側に上がって、ぽとぽとと障子を叩く。
「兄さん、ご飯だよ」
 障子の向こう側が透けるほど、まだ日は落ちていないし、ランプも点けていないのだろう。中を窺う事は出来なかったが、とたとたと、畳の上を歩く猫の足音は聞こえた。
 兄は出て来ないつもりなのかと、もう一度呼ぼうと口を開いたところで、ぱん!と、勢い良く障子戸が開いた。
「居るのだったら返事くらいしてよ」
 呆れ半分にそう言えば、壮太が眠そうに欠伸をした。
「迂闊にも干し芋を焼いていたら暖かくて眠ってしまってね。お前の声で起きたんだよ」
 なるほど。眠そうな上に、部屋の中を覗けば、火鉢に網が掛けてある。
「焦がさなかった?」
「寝る前に寄せたからな」
 伸びをしながら横着に弟へ答えると、庭に在る、昔はお茶専用だった清水の湧き出る岩場から水を汲んで、ばしゃばしゃと顔を洗った。
「ご飯食べるよね?」
 手拭で顔を拭く兄を眺めながら問いかければ、うんうん、と、首だけで頷かれた。
「灯子も、美味しいご飯があるからな」
 兄の恋人のような愛犬の頭を撫でる。
「こら。灯子に気安く触るな」
「えー。お客さんに撫でられるのは平気なのに、どうして僕はだめなのさ」
「お客さんは良いの。お前は男だし年頃だし」
「もう。そんなに心配しなくたって、灯子は兄さん一筋だろう?僕だって灯子に触りたいもの」
 この兄は、男性が灯子に触れると、いつも機嫌が悪くなる。父だけは例外のようだけれど。
「灯子が浮気なんかする訳無いだろ。単に俺が嫌なの」
「はいはい」
 分かっていた事なので、次郎太は苦笑して、突き出された手拭を受け取って、自分の肩に引っ掛けた。
「これは洗いに出しておくから、部屋に戻る時に、新しいのを持って来なよね」
 そう言って笑って、先に立って母屋へと歩き出せば、壮太もぺたぺたと後を着いて来た。
「ねえ兄さん」
「うん?」
 唐突に話しかけても、ちゃんと返事をしてくれるのが可笑しくて、何となく笑ってしまう。
「何だよ?」
「うん。文吉なんだけれど、どうも様子がおかしくてね」
「・・・・・へえ?」
 こういうのらりくらりとしたところは、少し腹が立つ。
 怪奇現象に至っては、幽霊が見える体質の所為で、壮太は色々と詳しい。たまに、幽霊でない変なものまで見ているらしいので、文吉が店の中で見ている臙脂色の着物とやらを、壮太も見てはいないかと思って聞くだけのつもりだったのだが。
「兄さん、何か知っているでしょ?」
 肩越しに振り向きながら、そのものずばりと決め付けると、壮太はそっぽを向いた。
 これは、やはり何か知っていて、隠している事がある。
 予想外ではあったものの、これは手っ取り早いと思ったほうが良いのだろう。
「臙脂色の着物の端が、どうも見えたりするらしいのだけど。うちには臙脂なんて色を着て仕事するような人はいないし、お客さんにも、今日は臙脂色を着ていた人はいなかったと思うし」
 足を止め、くるりと体全部で振り向いて、にっこりと笑って見せれば、兄は面倒くさそうに眉間に皺を寄せた。
「まったく、お前は勘が鋭くて困るよ」
「それは褒められていると思って受け止めておくよ」
 ぼりぼりと頭を掻くものだから、兄の髪が盛大に崩れる。
 崩れると分かっていても、この癖は直らないらしい。次郎太も、同じ癖を持っているのだが、壮太は髪をまとめて結っているのだから、気を付ければ良いのにといつも思う。自分はこの癖で、髪を伸ばすのを諦めた。
 つい最近まで、曲げを結う時代だった事を考えると、今この時代に生まれて良かったと思う。兄のそれは、その時代の名残だし、自分はこの癖でさっさと諦めてばっさりと切ってしまった。
 崩れた髪を結び直しながら、壮太はちらりと次郎太を見やる。
「兄さんの目。見えるって言うのは不便だとも思うけれど、結構人助けになっているよね」
 兄の描く絵は、幽霊を描いているというのに、生き生きとしている。その所為もあってか、描かれた幽霊の遺族に見せてやれば、ほとんどが有り難がって持っていく。
 描かれている人々が、微笑んでいたり、怒っていたり、それは表情が豊かで、生きている頃と変わりなく描かれているからだ。
 もちろん、それらが亡くなってから描かれたものだというのは、秘密にしているのだけれど。
「死んだところで人の性格は変わらないし、幽霊だからと言って全部が全部、悪霊と言うものでもない」
 などと、本人はけろりと言う。
 逆に、霊魂だけになってしまったほうが、その人物の本質が出ると言う。
 まあ、魂だけの存在になるのだから、それもそうかとも思う。
「幽霊を描くのは、面白いからやっているだけだし」
「はいはい。ご遺族の慰めになっていたって、兄さんは知らん振りだし?時々、絵の中の人物がいなくなっていたって、何にも気にしないものね?」
 壮太の描く幽霊の絵の怪奇に、最初に気が付いたのは次郎太だったし、それがあの黒猫が家に出入りするようになってからだと言う事に気が付いたのも、次郎太だった。
「今日は艶子は?先程までいたのでしょう?」
 あの猫がいるということは、何かがあるということだ。
 気付いてはいても、次郎太はその事を兄に問い詰めたことは無い。それは、父も母も同じだったし、多分、あの常連客の凜も、そうなのだろう。
 それは、壮太も薄々気が付いていた。
「・・・・艶子は今お出掛け中だよ」
「文吉のところ?」
 にっこりと、わざと顔を覗き込んで言ってやれば、渋面を作られた。それから、諦めたように、盛大な吐息を吐かれる。
「どうも、俺はお前には敵わない気がする」
「それはお互い様です」
 今度は、とても嫌そうな顔をされた。
「文吉の見る臙脂色の着物、兄さんはとっくに分かっているのでしょう?文吉が泣いていましたよ。早く解決してやりたいのですがね」
 そこまで言ってやれば、まるで降参したという様に、両手を挙げた。
「分かったよ。文吉が仕事に手が付かないって言うのなら、商売に差支えが出る」
「知っていながら何もいわなかった事は、兄さんなりに調査をしているでしょうから、両親には黙っておいてあげます」
「・・・・・そういうところも憎たらしいけど、助かるよ」
「どういたしまして?」
 うんざりするような壮太に比べ、次郎太は満足そうに微笑んだ。