「おかーえりー」
 自分の部屋へ帰れば、艶子が全身真っ黒な少女の姿で、間延びした挨拶を寄越した。
「どうかした?」
「どうもこうもないわ。ぴったりくっついて離れる気配が全くないから、見ていても仕方がないなあって思っただけ」
 縁側で足をぶらぶらさせて、機嫌が悪い。
「あら。灯子もお帰りなさい」
 壮太の足元で、ちょこんと座って抗議の声を上げる灯子にも、艶子がのんびりと挨拶をした。
「まあまあ、灯子もこっちに座りなさいよ」
 ぺちぺちと、自分の隣の床を叩く艶子に、灯子は困ったような顔をする。
「艶子。あまり灯子を苛めないでおくれ」
 壮太が、艶子が叩いた床と、逆側に腰を下ろした。
 灯子はその壮太の足元の、縁側の下に潜り込んだ。
「灯子のけち」
「何がけちなのさ。よっぽど暇だったみたいだね」
 機嫌の直らない艶子の頭を撫でて、壮太はひとつ、溜息をついた。
「あら。壮太が溜息なんて珍しいわね」
「うん。お静さんの話を聞くことが出来たのだけどね」
 お楊と禎子から聞き出したお静のひととなりと、入水自殺するまでの経緯と、彼女が見合い相手に、こっそりと恋をしていた事などを、簡単に説明する。
「恋、してたのかぁ」
「らしいねぇ」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
くうん
 お互い、思う事があるのか口をつぐんでしまえば、灯子が心配そうに鳴いた。
「それで?」
「そうだねぇ。どうしようかと思ったんだけれども」
 壮太にしては、先程から歯切れが悪い。
「行って来ちゃった」
 にっこりと微笑みながら、主語を抜いた科白を吐いてこちらを見やる。
「行って来たって、何処へ?」
 胡乱気に睨めば。
「町田屋」
 腕組みをして、壮太はへらりと笑った。
「・・・・・で?」
 壮太が何か目論んでいるらしい事はなんとなく分かったので、先を促してみる事にする。
 艶子が、自分の話を聴く体勢になった事に満足して、壮太は腕組みをしたまま、庭に咲く福寿草の黄色に目線を移した。
「町田屋の親父さんには、俺も時々世話になっているからね。初めはうちの店の仕事を持っていって、探ろうかと思ったのだけれど。理由を話して、見合い相手だった紋二郎に会わせて貰った」
 川田屋に居た職人を、何人か引き取っていると言う町田屋の主人は、吉治と言う。
 商売敵同士、川田屋の話は良く耳にしていたらしい。あんな店で良く働いていたものだと、しきりに呟いていた。
 彼の、硬い職人気質の癖に、情に脆い所は、下町の人間らしかった。
「理由って、どう話したのよ」
「適当に?お静さんの事を知りたがっている茜屋の女中に頼まれたって言っただけだよ」
「まあ、そのままと言ったらそのままよね」
 別に嘘は言っていない。
 吉治も、お楊の名を出したら納得してくれたようだった。
「それでさ、ちょっとびっくりしたのだけど」
 ぽりぽりと、自分の髪の結び目辺りを軽く引っかけば、爪に髪の毛が絡まって、数本結び目から髪が解けた。
「あ」
 それが気になって、結び直そうとする壮太にイラついて、艶子は壮太の腕を掴んだ。
「話の要点で気を反らすのは止めてくれないかしら?」
「ああ、ごめん。それでね」
 誤りつつも、結局髪を結び直す壮太は、話を勿体つけているように思えた。
「どう言ったら良いのか」
「どうもこうもないわ。そのままズバリと言っちゃいなさいよ」
 腕を組んで首を傾げ、少々考え込む仕草を始めた壮太の膝を、べしりと艶子は叩いた。
 これで、猫の姿のままであったら、確実に噛み付いているところだ。
「僕の思い違いでなければ、お静さんと紋二郎は、どうも両想いだったらしいのだよねぇ」
「・・・・・・・は?」
 ここで恋愛事に話が向くとは思ってもいなかったので、艶子は大きな眼をまん丸にした。
「艶子、猫みたいになっているよ」
「みたいじゃなくて猫なのだから気にしなくても良いのよ!それよりも!」
 両想いだったのなら、なにも川に飛び込む必要はなかったのではないのか。
「そうしたら、あたしの仕事も減って、今頃壮太なんかの所にいないのに!」
「こら。なんかって何だよ。なんかって」
 頭を抱えた艶子の言葉に、軽く抗議する。
くうぅ
 灯子が、縁側の下から顔を出して、唸る艶子を見やった。
「艶子。灯子に心配されているよ?」
「灯子は良い子だから」
 それは灯子が心配するのは当然の事だと言っているのだろうかと、壮太が思考を脱線させた頃。
「両想いだって確証を得たのはどうしてよ」
 艶子が正気に戻って壮太を睨んだ。
「取り憑かれた以上、あんたの絵で縫い付けておけないのだから、ちゃんと責任取ってくれるのよね?」
「えぇ?それは俺の所為なの?」
 確かに、描きつけている最中で、完全に縫い止めてしまう前に、自分の店の丁稚に、迂闊にも取り憑かれてしまったのは事実だし、人に取り憑いた霊魂は、取り憑いた人間の霊魂と触れ合っている以上、絵に描き止めてしまえば取り憑かれた人間ごと縫い付けてしまうので、艶子の死神の刃と同様、壮太の絵は役に立たない。
 しかし、どちらかと言えば自分は趣味で絵を描いていただけで、それを勝手に利用したいと言って来たのは「あの世」の方々なのだ。言いがかりの様な気がしなくもない。
「そりゃあ、閻魔様には、仕事としてお願いはされたけれどさ」
「生きた人間の癖に閻魔様からお約束を頂いている壮太が変なのよ。ちゃんとそれなりの報酬は貰っているのだから、仕事は仕事としてきちんとしてくれるのかって言っているのよ」
「・・・・・・報酬は貰っていないよ。後払いだもの」
 艶子は、閻魔が壮太に約束した報酬が何なのかは知らない。知らないが、後払いであろうが何であろうが、あの閻魔と交わした約束なのだから、守ってもらわない事には死神の面子と言うものがある。
「大体、俺の力なんかがなくたって、死神は困らないだろう?」
「困るからあんたと組んでいるのよ」
 死神が、浮遊している成仏できない霊魂、つまり幽霊を狩り集めて彼岸へ連れて行き、成仏させているのだが、地上のあちらこちらを浮遊されるので手に負えない。
 飢饉や戦がある地域の死神は、それこそ不眠不休で動き回る。
 体力と言うものを元来持たないので、疲れる、ということはないのだが、それにしたって限界と言うものがある。精神的に。
 下手をすると植物や岩石などの自然物と同化しているふざけた様な者もいれば、生きている側の人間や自然界に害をなす悪霊になってしまう場合もあり、死神の仕事というものは、それはそれは目まぐるしい。
 そこで、壮太の「見える目」と、絵にして「縫い止めてしまう力」は重宝できるのだ。
「朝も言ったけれど、幽霊にうろつかれるより良いのよ。居場所が特定できて、さっさと狩れるのだから、楽な事この上ないわ」
 未練があってこの世に残っている霊魂は、成仏したくないと死神に襲い掛かる場合も多い。
 勿論、高々人間の魂の成れの果てである彼らが、神である死神達に勝てるはずもないのだけれど。
「俺の力なんか、微々たるものだと思うのだけれどな」
「それでも、無いよりはマシなの。でなければ、わざわざ冥府の王が、人間に会いになんか来ないわよ」
 それもそうかと思い直し、壮太はぽんと、手を叩く。
「ま、確かに今回みたいな事になったら、只、幽霊を狩るっていうわけには行かないのだろうしね」
「分かってくれたのなら有り難いわ。一応、言っておくけれど、壮太みたいな幽霊案内人は世界中にいるのよ?」
「へえ?俺みたいなのを幽霊案内人っていうの?」
 世界中に自分のようなのがいる事に驚くかと思えば、聴く所は其処か。
 艶子は先程からの不毛な会話に、少々目眩を起こした。
「そりゃあ、俺以外にも、見える奴っていうのはいるだろうなと思っていたし、子供の頃、気を使ってくれた父さんが、そういう人の所に連れて行ってくれた事もあったからね」
 そこで、閻魔との縁が出来たのだと、壮太が言った。
「そうなの。へえ。まあ、冥途の入り口まで幽霊を案内、もしくは死神を幽霊のところまで案内するから、幽霊案内人なのだけれど」
 その説明で言えば、壮太は後者になる。
「なんだ。知っていたの」
 ふい、と、そっぽを向いた艶子の顔を、上から覗き込む。
「俺がこの見える目のことを、気にしていると思っていた?」
「別に?」
 壮太の視線を避けるように、艶子は勢いをつけて、縁側から地面へ飛び降りた。
「今心配しているのは、お静の幽霊が、大人しくあたしに狩られてくれるかどうかって事だけよ。壮太なんか心配事のしの字にも入らないわ」
「そう?」
 背後で、微笑んでいる壮太の気配に、艶子はなんだか無性に腹が立ってきた。
 ひょいと黒猫に姿を変えて、尻尾でぱたぱたと地面を叩けば、舞い上がった土煙が壮太を直撃する。
「うわ、目に入った!」
「いい気味だわ」
 ささやかな仕返しが成功した事に満足して、艶子は猫の姿のまま、壮太の膝の上にどかりと腰を下ろした。
「重いよ」
「煩いわね」
 のいてくれる様子は無いので、壮太は諦める。仕方なしに、心配そうに縁側の下から出てきて、足元にちょこんと座る灯子の頭を撫でた。
「それで?両想いの癖に、こんな事になったのは擦れ違い?」
 ようやく反れた話を本筋に戻して、艶子は尻尾をぴんと立てた。
「擦れ違いと言うのか、紋二郎は彼女が亡くなるまで、相手がお静だと知らなかったらしいね」
「あら。それは気の毒」
 川田屋の主人、達二郎の段々冷たくなる態度に、店を継げるだなどと、大それたことは思ってもいなかったらしい。ただ、いつか認めてもらえるようにと、修行に励み、商品開発にも力を注いだ。
 それが、余計に達二郎の機嫌を損ねている事には、うすうす気が付いていた。それが決定打となったのが、分店の話が出た時だったという。
「彼は彼なりに、川田屋を盛り立てようとしていたのだねぇ」
 分店の店主になれと言われ、厄介払いをされるのだと落ち込んでいた時に、随分とお静に励まされたのだと言う。
 前々から茜屋に出入りしていて、お静の存在は知っていたらしく、良く働く上に、着ている着物や持っているものの趣味の良い事には気がついていた。たまに、女性客からの注文が入れば、色柄の相談にも乗って貰うような、それくらいお静の趣味は良かった。
 それが、分店を持つに当たって女房を持てと言われ、紋二郎はようやく、自分の気持ちに気が付いた。
「商売相手の店の、従業員に恋をしたなんて事が達二郎にばれたら、きっと邪魔をされるに違いないと、誰にも言わずにいたらしいよ」
 見合い相手の店が想い人のいる店と聞いた時は、内心、色々と穏やかではなかったが、もし見合いをして、お静だったら引き受けたし、そうでなければ断るつもりで、紋二郎は見合いの日を心待ちにしていたのだ。
「若いって良いねえ」
「あんただって充分に若いでしょうが。その科白はあたしの科白よ」
 縁側に座り、足元に犬、膝の上に猫と、良く考えたら非常に年寄りくさい状況で、非常に年齢にふさわしくない呟きを、壮太がもらす。
「まあ、それであの騒動が起きて、暫くはかなり落ち込んでいたそうだけれど、町田の親父さんに渇を入れられて、今はお静さんの供養にって、四十九日用の供え物を染めているらしいよ」
「四十九日に染物のお供えって聞いた事がないわ」
「まあ、彼なりの気持ちだろうからね」
 自分との見合いだと聞いて嫌で自殺したのかと思い悩み、そうではないと知ってからは何故自分の想いをお静へ告げずにいたのかと思い悩み。
 どれだけの後悔をしたところで、結局、覆水は盆に返らないのである。
 なら、あの世にいるであろう彼女に、精一杯の想いを込めて、絹の着物を染め上げるのだそうだ。
「見せてもらったけど、友禅でも絞りでもなくて、刷毛で染めただけで、あんなに綺麗なぼかしができるのだって、初めて知ったよ。きっと、とても綺麗な着物になるだろうね」
 思い出してでもいるのだろう、壮太が呆けた顔で、遠くを見詰めている。
「・・・・・・あら?」
 ふと、艶子が首をかしげた。
「・・・・・・・・・・ぼかし?」
 確か、お静の幽霊が着ていたのも、ぼかしの着物ではなかったか。
「そう。あのお静の臙脂の着物。紋二郎が染めた物だそうだよ。ぼかしは、彼の十八番なのだそうで」
 好いた相手との見合いに、その相手が染めた赤い着物を着て。
「・・・・女心ねえ」
「純愛だよねえ」
 お静という女性が、どれだけ紋二郎という染物職人を好いていたかが分かるようで、艶子はなんとなく、お静が自殺した理由が分かったように思えた。
「馬鹿よねえ」
 残された人々が、どんなに嘆き悲しむかも考えず。
 紋二郎の事しか見えていなかったのに、紋二郎の気持ちには気付いていなかったのだ。
 だから、紋二郎の父親代わりである達二郎に、己を否定された事により、もう、紋二郎と結ばれることは無いと絶望したのだろう。
 まして、気にしていた顔貌を酷く言われたのなら尚の事。
「馬鹿ばっかりねぇ、人間って」
「馬鹿ばっかりなのは認めるけど、繰り返して言われると傷付くなあ」
「あんただって馬鹿なんだから、肝に銘じておきなさいよ。何度でも言ってあげるから」
「うわあ」
 冷めた視線を送られて、壮太はわざとらしく胸に手を当てた。
「まあ、大方は分かったわ。で、紋二郎に何て言ったのよ?」
「うん。まあ、うちの丁稚に君の想い人が取り憑いているとは流石に言えないでしょう?」
 それはそうだ。
 艶子はもそもそと、壮太の膝の上で箱を組んで座り直す。胸の下に両前足を仕舞い込む、あの猫独特の座り方だ。
 春先の夕暮れ時は冷える。
「まあ、とにかく文吉と紋二郎を会わせてみようと思ってね」
「会わせてどうするのよ?」
 紋二郎は、文吉にお静がくっついている事など知る由もないのに、会わせて意味があるのかどうか。
「紋二郎には分からないかもしれないけれど、お静さんには、分かるだろう?」
 幽霊になっても、お静はお静だ。
 恋焦がれた相手が目の前に現れたら、どうなるか。
「それで、明日にでも仕事が終わったら、頼みたい染物があるから店に来てくれって頼んでおいた」
 にっこりと、壮太は何を考えているやら分からない笑みを浮かべた。
「顔を貶されて死んだ女が、慕っていた男の前に現れるなんて事は無いと思うのだけれど」
 呆れ半分に首を傾げる艶子を、箱を組んだままの体勢で持ち上げて、壮太は縁側から、よいしょ、という掛け声と一緒に立ち上がる。
「灯子もおいで」
 灯子が部屋に入るのを確認して中に入ると、ランプをつけるにはまだ早いので、火鉢に火を入れて、障子戸を閉めた。
 艶子は座布団の上に降ろされた。
「座布団が冷えているわ」
「文句は言わないでよ。流石に外は寒くなってきたからね」
 寄り添って来る灯子と火鉢で暖を取りながら、壮太は火鉢の上に網を置いて、傍にあった木箱から、取って置きの干し芋を出して焼き始めた。
「もう少しで晩御飯でしょう?」
「でも、小腹が空いたからね」
 暫くすれば、薩摩芋の甘いにおいが部屋に行き渡る。同時に、部屋の温度も、随分と温まったようだった。
「明日、紋二郎が来て、文吉と会わせるのは分かったけれど、それでお静がどういう行動を取るかは不明よね」
 焼けて丸まり始めた芋を見詰めて、艶子は不満そうだ。
「驚いて文吉から離れてくれれば良し。紋二郎に鞍替えしようというなら、その瞬間はチャンスだし、彼女が物凄く大人しい女性で、恥ずかしがって身動きをせず、文吉から離れてくれないようなら、それはそれで、紋二郎に任せるさ」
「・・・・・」
 紋二郎に、何を任せるのか。彼は見えない類の人間であるのに。
「人の思いは、時に神様の予想をはるかに上回るものだよ」
 にっこりと、預言者のようにのたまって、壮太は干し芋を旨そうに口に運んだ。