そんな事をすれば、ますます従業員や職人たちの心は達之介から離れてしまうだろう。下手をすれば、その紋二郎を慕っている職人や従業員は、皆その新店舗とやらに取られてしまいかねない。
「その、川田屋の達二郎なる人物が、了見の狭い尻の穴の小さな男だという事は分かりました。うちの父が、相手にするわけがありませんね」
 下の人間を大切にしない組織は、本当の意味で成長しない。例え物事が巧く行っている様に見えても、いずれは破綻をきたす。
 組織というものは、商売であれ国家であれ、底辺の人間で成り立っている。けして、上にいる人間だけで、世の中が回るわけではない。
「お静さんには悪いですが、商売の基本も出来ていないような店に、嫁がなくて良かったと僕は思いますけど。勿体無い」
 ぱくりと、饅頭の最後の一欠けらを口の中に放り込んだ。
「・・・・・・なんです?」
 女性陣が、三人とも壮太を呆けた様な顔で見ているので、壮太は居心地が悪くなって、給仕の女の子を呼んだ。
「いやあん!壮太さんったらやっぱり良いわあ!」
「好感が持てますねぇ」
「だから、好い男だって言っているでしょうが」
 こんな事くらいで好感が持てるなら、うちの次郎太だって捨てた物じゃないのだけれど。そんなことを思いながら、壮太は醤油団子を追加注文する。
 そういえば、昼食を抜いて来ていたので、腹が減っていた。
「皆さんは何か食べますか?お礼といっては足りない気がしますが、俺が奢りますよ」
 壮太が全員の顔を見渡せば、禎子が嬉しそうに手を上げた。
「はい!あたしシベリアケーキ!」
 よほど好きなのか、目がきらきらしている。
「じゃあ、お言葉に甘えて、私はカステラの追加を」
「あたしもカステラ」
 お楊が遠慮がちに申し出れば、凜も同じものが食べたくなったらしい。
 それらを注文して、お茶のお代わりもお願いすると、やっぱり先程と同じ様に、すぐに持ってきてくれた。
「ところで、その紋二郎ですが」
 全員に、注文の品が行き渡ったところで、壮太が顔を上げた。
「彼に暖簾分けをするとして、何故、見合いを?」
 それについては、理由は簡単だった。
「分店とはいえ、一国一城の主になるのだから、所帯を持て、というところじゃないかしら」
 お楊が、上品に口元を隠しながら答える。
「ああ。なるほど」
「そこにちょうど持ち上がったのが、お静ちゃんの結婚話だったのだろうね。それで、川田屋としては、ある程度付き合いがある、大きな店と、更に強い繋がりを持ちたかったってことさ」
 凜が、溜息をつく。
「普通でしたら、店のお嬢さんを貰うところですが、生憎、うちの茜屋にはお嬢さんがいませんので、妥協しなさったのでしょう」
そこで妥協される覚えもないのですが、と言って、お楊は湯飲みを傾けた。
「落ち着くには、お茶が一番ですわね」
 寂しそうにお楊が呟いて、湯飲みの中の、まだ残っている、暖かで透明な緑色を見詰めた。
「お楊さんは、仲良かったものね」
「妹みたいな子だったから。でも、年でいったら、禎子ちゃんのほうが近いでしょう?あの子から、何か聞いていなかった?」
 禎子は少し俯いて、手元のシベリアケーキを、フォークで崩す。
 答えて良いものかどうか、迷っている。そんな仕草だった。
 それから、ふう、と、ゆっくり息を吐き出して、ぽつりと呟いた。
「・・・・・・・・・お静ちゃんね。好きな人がいたの」
 その言葉に、一同の視線が一斉に禎子へ集中した。
「・・・本当?」
 驚いて、細い眼を見開きながら、お楊が口にした。
 それに、禎子がこくりと、小さく頷く。
「それじゃあ、お見合いが嫌で?」
 好いた男がいたのなら、見合いが嫌で入水自殺をしたのかと、お楊の声が震える。
「ううん。そうじゃないの」
 禎子が、一生懸命首を振って、お楊の危惧を否定した。
「むしろ、お見合いがしたかったんだと思う」
「え?」
「それは、どういう・・・?」
 全員の疑問符に、禎子は目線を上下させて落ち着かなかったが、お静ちゃんごめん、と、小さく呟いて、目線を下に落としたまま告白した。
「お、お静ちゃんの好きな人が、お見合いの相手だったから・・・!」
「!」
 小さくて、ともすると聞き取れない様な声だったが、その内容は全員を驚かせた。
「・・・お静ちゃん、紋二郎が好きだったの?」
 凜の質問に、目に涙を溜めて、禎子はまた、こくりと頷いた。
「取引で、紋二郎さんが店に何度か来た事があったらしくて。普通の人は、お静ちゃんの顔を見て、一度は驚くらしいのだけど、紋二郎さんだけはそんな事もなく、最初から普通に接してくれたって・・・・・言っていたの」
 好いた相手との見合いなら、断るはずもなし。ましてやそれが原因で、自殺するはずもなし。
「そう。お静ちゃん、恋をしていたの・・・」
 出来れば叶えてやりたかっただろう。お静の恋に、お楊も悲しそうに微笑むだけだった。
「紋二郎さんとのお見合いが決まって、あの子、自分に自信がない子だったから、ずっと、私なんかで申し訳ない、私なんかで良いのかしらって、言ってて。でも、凄く嬉しそうで。私も、良かったねって、言っていたの。お見合いで、紋二郎さんに気に入って貰える様に頑張るんだって、お静ちゃん、一生懸命で」
 そこまで一気にまくし立てると、堪え切れなくなったのだろう、禎子の大きな眼から、ぼろぼろと涙がこぼれた。
「では、川田屋の主人に目通りして、醜女って言われたのは?」
 凜が、お楊を見やった。
 こくりと、涙を流しながら、お楊が頷いた。
 巾着からハンケチを取り出して、目頭を押さえてから、思い出すように、ぽつりぽつりと、口を開く。
「あの日は、店もそんなに忙しくなくて。それで、朝から旦那様が川田屋に使いを出していたんです。お見合いの話を進める為だろうって、皆も、自分の事みたいにそわそわしていて」
 そうして、昼食を取りながら話をしようと、多岐衛門が達之介を自宅に招いた。
「お静ちゃんは、それでも普段と変わらずに仕事をしていたのです」
 普通なら、自分の見合いが進められている状況で、落ち着きはしないだろう。まして、好いた相手との見合いなのだから、仕事に手が付かなかったり、落ち着きが無くなっても良さそうなものだが、お静という娘は、本当に良く出来た娘だったらしい。
「それで、お店に達之介がやって来て・・・・・」
 一旦言葉を切ると、また溢れ出した涙を、お楊は懸命に堪えている様だった。
「無理をしなくても、良いのですよ」
 壮太が気を使ったが、お楊はぺこりと頭を下げて、にっこりと笑った。
「大丈夫です。ごめんなさいね?」
 そう言って、自分の隣でまだ泣いている禎子の頭を撫でる。
「ご、ごめ、なさっ・・・」
「良いのよ。禎子ちゃんだって、辛いのよね」
 お楊自身、禎子の頭を撫でる事で、落ち着こうとしているようだった。
「ここから先は、上手く話せるかどうか、私にも分からないのですけれど」
 そう前置いて、お楊は再び話し始めた。
「川田屋の達之介が、店に顔を出したのは、予定より少し早い時間でした。それでも、旦那様は快く達之介を迎えて、母屋へ通そうとしたのです。その際に、達之介が、我が家に迎え入れるかもしれない嫁の顔を見たいと言って、笑ったのです」
 そこで、名前だけで、まだ顔もお互いに知らないのだからと、多岐衛門が思い立ち、お静はお客の評判も良くて、良く気の付く働き者の良い娘で、丁度良いと説明をすると、達之介も満足そうにしていたのだという。
「それで、旦那様も気が緩んだのでしょう。お静ちゃんを呼んで、達之介に会わせたのです」
 多岐衛門は、相手が紋二郎だと知っていただろうから、もしかしたら、二人が店で話しているのを見ていたのかもしれない。二人の様子から、上手く行くと踏んでいたのかもしれない。それに加え、達之介の満足そうな顔に、安心もしたのだろう。
 そもそも、茜屋が、可愛がっている使用人の嫁入り先を探しているという話を聞きつけて、見合い話を持ち込んだのは、川田屋だった。
「旦那様も、まさかあんな事になるなんて、思いもしなかったのでしょうね」
 お静の顔を見るなり、川田屋は茜屋を罵り、お静を醜女と罵った。
「期待させておいて裏切っただの、こんな醜女にうちの従業員は勿体無いだの、顔を見て人を選んでいるのかだの、それは酷い罵倒を浴びせられて・・・本当に醜いのはいったいどちらだと言うのでしょうね」
 堪らなくなって飛び出したお静を、店の丁稚に後を追わせ、多岐衛門は達之介を怒鳴りつけて追い出した。塩を店に撒くように言いつけて、多岐衛門自身も、お静の後を追ったが見失ってしまった。暫くして、お静の後を追わせた丁稚が、青い顔をして店に飛び込んできた。
「小さな子供に、後を追わせたのが間違いだったと、旦那様は悔やんでいらっしゃって、奥様も、ずっと泣いたままで、今は床に臥せっておられます」
 川に飛び込むお静を、丁稚では止める事もできず、走って店に助けを求めて来たのだったが、店の男衆が駆けつけた時には既に彼女の体は流された後で、警察と総出で川底をさらった。
 やがて、あの枝垂桜の下に流れ着いたお静の体が発見される。
 震える声でお楊が話し終えると、店の中はしんと静まり返った。
 再び聞こえ出した、禎子の嗚咽だけが、妙に響いた。
「その後は、知っての通り、旦那様は全力で川田屋を潰しにかかりました。本当にお静ちゃんを可愛がっていましたから、気が納まらなかったのでしょう」
 元々、紋二郎人気でもっていた様な店だ。
 周りをつつけば、転がるように倒産して行った。
「お葬式には、あの子がお見合いの時に着る予定だった着物を着せて、最後の別れを惜しんだのですよ」
 また涙を拭い始めたお楊の言葉に、壮太は気になって問いかけた。
「着物って、どんな着物です?」
「落ち着いた臙脂の、ぼかしの入った、染めの綺麗な着物でした」
 それは、壮太が描いたお静の着ていた着物、そのものではないか。
「そうですか」
 亡くなった時に着ていた着物ではなく、魂のみの存在となって尚、見合いに着て行く筈だった着物を着ていたのだ。
 お静が、どれだけ紋二郎を好いていたか、どれだけ見合いを心待ちにしていたかが分かるような気がして、壮太は、生前に会った事のないお静という少女の儚さに、やるせなさを感じた。
「紋二郎ですが、今はどうしているのか、分かりませんか?」
 彼は、相手がお静だと知っていたのだろうか。
 そんな疑問から、壮太は紋二郎のその後が気になった。
 もちろん、川田屋から見た事の騒動も調べなければならなかった事もあるが、紋二郎の協力を得られれば、お静を文吉から引き離して、在るべき場所に成仏させる事ができるかもしれない。
「紋二郎さんは、人気の染物職人だったから、どこかに引き抜かれているのかも」
「でも、多岐衛門さんが怖くて、どこも引き取らないかもしれないねえ」
 禎子と凜が、首を捻る。
「紋二郎さんなら、うちの店の取引先にいます」
 意外な事を、お楊が口にした。
「うちの旦那様が懲らしめたかったのは、川田屋の達之介だけで、あの店で働いていた従業員に罪は無いわけですし。何人かは、うちの店で働いていますよ」
 川田屋が倒産した後、多岐衛門は川田屋の従業員の再就職先を手配してやったのだと言う。
「へえ。それはまた、天晴れだねえ」
 凜が感心して、にんまりと笑った。
「茜屋の旦那さんは漢だねぇ。お楊ちゃん、良い店で働いているじゃないの」
「はい。円屋さんの所ほどではありませんけれど」
 自分の職場を褒められて、お楊は少しだけ笑った。
「たいしたお人ですね。多岐衛門さんて。うちもご贔屓にさせて貰っていますが、成程」
 茜屋は、円屋とも取引をしているので名前は知っているし、手を抜かない仕事をするから信用が出来ると、父の彦衛門が言っていたのを思い出す。
「それで、紋二郎のいるお店とは、どちらで?」
「うちの店で染物を買い付けているのですけれど、町田染物店です」
「え?町田ですか?」
「ご存知で?」
 知っている店の名前が出て、壮太は驚いた。
 町田染物店といえば、円屋も贔屓にしている店だ。
 町田の親父といえば、型染めを得意とする染め職人で、江戸小紋の細かな模様といったら、見事としか言いようがない。
 他にも、浴衣や紅型なんかも染めている。
 紅型は琉球の染物だが、色柄が気に入ったとかで、専門の染め職人を呼んで、東京でも染められるようにしてしまった。
 それらの技術を生かして、絹だけでなく、木綿の風呂敷なども染めており、最近では千代紙にも挑戦しているとか。
「色々と創作意欲の強い店で、しかもどれもこれも手を抜かないので、うちの親父が気に入っていましてね。あの親父さんに気に入られたのなら、余程腕が良いのでしょうね」
 それなら、円屋の仕事を理由に様子を探りに行けるかも知れないと、壮太は自分の顎を摘んで考えた。
「・・・・・壮太さんは、何故そこまでお静ちゃんの事を気にかけるの?」
 じっと、禎子が壮太を見詰める。
 絹と木綿とはいえ、同じ織物の問屋であるので、お静の事を知っていて気になっているのかと思ったが、壮太はあまりお静の事を知っているように見えない。では、何故見合い相手の行方まで気にしているのか。
「ああ、気を悪くしないで下さいね?」
 壮太は、にっこりと微笑んで見せて、一つ前置きをする。
 ここで、お静の幽霊が円屋の丁稚に取り付いていて、死神が魂をあの世に連れて行けないので困っているなどと、阿呆みたいな本当の話をするわけにもいかない。
「個人的な興味、と言えばそうなんですけれど。川の畔の枝垂桜があるでしょう?あの桜の傍に行くと、うちの艶子が、ああ、黒猫なのですけれどね。この猫が、妙に鳴くのですよ。ホラ、動物って、色々なものに敏感だと言うじゃありませんか」
 申し訳無さそうに、壮太は俯きながら一息に喋りたてる。
「ちょうど、お静さんの件があってから、そういう行動をするようになったので、気になりましてね」
 ちらりと三人の様子を伺えば、何か察しているのか、凜は反応を示さず、お楊と禎子は驚いた顔をして、お互いの顔を見やっていた。
「お静ちゃんは、成仏していないのでしょうか?」
「その可能性は否定できませんけれど。何せ、あんな亡くなり方をしていますから」
 再び泣きそうになる二人に、壮太はやんわりと言い聞かせた。。
「いや、そういうわけでは。俺がちょっと気になっただけで。実際、調べてみたら鼠が住み着いていましてね?大方、それで鳴いていたのだと思うのですよ。でも、お静さんの事も気になって調べていましたから、そうなったらもう、最後まで調べないと気が済まなくなったと言うのでしょうか」
 あくまで、個人的な興味と言うのでしょうかね?などと、にっこりと笑って言ってやれば、お楊も禎子も、ほっとした様子だった。
 女性に泣かれるのは、あまり好きではない。
 好きな奴がいたら、それは変態だろう。壮太は変態ではないので、普通に女性の涙には弱かったから、なんとなくだが誤魔化した。
 それでも、自殺してしまった人の魂魄が、そうそう簡単に成仏するのかと言えば、甚だ疑問だ。
「そうですか。見ず知らずの壮太さんに、気に掛けていただいて。私も、気になってはいるのですけれど。旦那様は気丈にしておられますけれど、奥様がそれはもう、衰弱しきっておいでで。あの子が、茜屋で働いていて、幸せだったのかどうか、とても気に病んでいらっしゃって・・・」
 そう言って、お楊は巾着からメモと万年筆を取り出すと、さらさらと流れるような綺麗な文字を綴った。
「茜屋の電話番号と、住所です。壮太さんなら、ご自分のお店でお調べになれば分かるかとも思いましたが、お知らせしておいたほうが、お手間が省けますでしょう?」
 丁寧に折りたたんで、壮太に渡す。
「出来たら、あの子の事で何か分かれば、教えて欲しいのです」
「わかりました。何か、お静さんの事で分かるような事がありましたら、ご連絡させていただきます」
 壮太も、それを懐へ丁寧に仕舞い込んだ。
「あの、できれば、あたしにも・・・」
 おずおずと、禎子が申し出る。
「禎子ちゃんも、気になるものね。壮太さんから連絡が来たら、すぐに禎子ちゃんに連絡をするわ」
 お楊が、禎子の頭を撫でて、微笑んだ。
「うん」
 その微笑に安心したのだろう。禎子は大人しく頷くと、シベリアケーキの最後の一欠けらを口に入れた。
くうん
 店先から、灯子の声が聞こえた。
「おや。灯子が呼んでいるようですので、俺はここで失礼しますよ」
 かたん、と、席を立つと、凜がくすくすと笑った。
「なんです?」
「いや。何でもないよ。ここはお前様の驕りだろう?」
 立ち上がった壮太に対し、凜の上目遣いの笑顔は実に艶やかだが、相も変わらず、壮太はびくともしない。
「もちろんですよ。皆さんには、お辛いのに色々と教えていただいて、ありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げて、顔を上げながら微笑めば、お楊も禎子も、ぽうっと頬を染めた。
「これから町田屋に?」
「ええ。灯子の散歩がてら」
 凜の、面白そうに聞いてくるのに、正直に答えて、もう一度頭を下げると、壮太は全員分の会計を済ませて店を出た。
 そっと、足元に擦り寄った灯子を、気にかけるように撫でてやると、溜息一つ吐き出して、壮太は一葉庵を後にした。