「女将さんは、やっぱり壮太様に甘い」
 一人眉間に皺を寄せ、文吉は黒猫を背に貼り付けたまま、帳場を後にする壮太の背中を目で追っていた。
 姿が見えなくなれば、ふん、と鼻息も荒く、不機嫌に手元の注文書を束ねてゆく。
「文吉も、それが済んだらご飯を食べておいで。腹が減っただろう」
 頭を撫でる大きな手に、見上げれば彦江門の顔があった。
「あ、ありがとうございます。もう少しで終わりますので」
「早くしないと、食い逸れてしまうからね。真面目なのも良いが、子供は成長するのが一番の仕事だよ」
 もう一度、文吉の頭を撫でると、彦江門は女将を呼んで、何か話し込む。
 午後からの仕事の打ち合わせだろう。
 この店に、丁稚奉公に来て一年。仕事にも随分慣れたし、旦那も女将も若旦那も、みんな厳しくも優しい。跡継ぎの次郎太などは、常に従業員に気遣って、仕事をし易くしてくれる。
 文吉は円屋の家族が大好きだ。ただ一人を除いて。
 長男坊の壮太だけが、円屋で浮いている。
 道楽で絵を描いて、店をほとんど手伝わない。売れる絵ならまだしも、本人に描いた絵を売る気は全く無いらしい。
 今日も、久しぶりに手伝うのかと思えば、とっとと出掛けてしまうというし。
「壮太様の分の負担が、全部次郎太様に被さってしまって、次郎太様も大変じゃないか」
「僕の心配かい?」
 まとめた注文書を棚に仕舞おうとして、後ろから声を掛けられ、文吉は飛び上がった。
「そんなに驚かなくても良いのに」
「じ、次郎太様!」
 にっこりと、父親譲りの柔和な笑みを浮かべ、次郎太がすぐ後ろに立っていた。
「文吉は優しいねえ」
 頭を撫でられながら、とりあえず棚の中に注文書を仕舞う。
「じ、次郎太様は、腹が立たないのですか?」
 思い切って聞いてみる。
「どうして?」
「だって・・・」
 自分の兄が、あんなにいい加減で。どうして平気なのだろう。
「まあ、文吉の言いたいことも分かるけど。僕は兄さんが店をあまり手伝わない理由も知っているし、絵を描く理由も知っているから、腹は立たないよ」
「理由・・・?」
 理由なんて、あるのだろうか。
 ただ、面倒くさいから。ただ、描きたいから。
 それだけだと思っていた。
「あはは。そう見えても仕方ないからねえ。うちの兄さんは」
 笑いながら、次郎太は文吉を連れて、土間へと向かう。
 前を進む次郎太の大きな背中を追いかけて、文吉は首を捻りながら、理由について考える。
「うちの兄さんは、いつものらりくらりとしているからね。解り辛いのだろうね」
 全くもってその通りだと思う。何を考えているのかさっぱり解らない。
「文吉は兄さんが嫌いかい?」
 ズバリと言われて、どう答えたものやら、しどろもどろしてしまう。
「き、嫌い・・・・です」
 意を決して正直に答えれば、次郎太が笑った。
「正直で良いね」
「すみません。自分のご兄弟を、悪く言われて気持ちの良い人なんていないですよね」
 謝れば、不思議そうな顔をされた。
「そうかな?それは人によるよ」
 さらりと言ってしまう次郎太に、文吉は一瞬きょとんとして、それは自身の事を言っているのだと思い、同意をしようと口を開きかけた。
「まあ、僕は兄さんが好きだから、確かに、あまり良い気はしないけどね」
 次郎太に遮られて、はっとする。
「す、すみません」
 次郎太が、壮太を慕っている事は、周知の事実であるのに。やっぱり次郎太も、自分と同じに壮太が嫌いなのかと思ってしまった。
 的の外れた、自分に都合が良すぎる解釈をしてしまった事が恥ずかしくなって、思い切り頭を下げる。
「謝る事ではないよ。僕が文吉から聞き出したのだからね」
 次郎太が、文吉を安心させるように、にこりと微笑む。
「兄さんは天邪鬼だし、結構不器用だから。誤解されるのは仕方がないし、誤解されてしまうのも、兄さんに責任があるしね」
 そんな会話を続けていたら、いつの間にか土間に着いてしまう。
 朝、がらんとしていて、物寂しさを覚えた大きな卓も、今は大人数がその席を占拠して、賑やかな事この上ない。
 その間を、おみよを含め、台所を任されている女衆の、威勢の良い声が飛び交っている。
「さ、食べておいで」
 ぐいと背中を押され、文吉は朝とは違う、いつも通りの食卓へ足を運んだ。
 朝は店の用事で出遅れて、一人寂しい食卓だったので、おみよが食事を運んでくれたが、今度はそうは行かない。
 台所へ行って、自分の分の膳を取りに行かなければならなかったし、席も見つけなければならなかった。
 次郎太の、壮太についての話は後で考える事にして、文吉は慌てて台所へと向かった。
「?」
 目端に、臙脂色。
 朝から何度か見る色は、地味な臙脂に、品の良い、ぼかしの入った女物の着物であるのは、おぼろげながら解っていた。
 文吉は、店の誰かが着ている色が目に入ってくるのだろうと、最初は気にしていなかった。しかし、ここまで何度も目に留まるのは、何故だろう。
 臙脂なんて、結構見る色で、珍しくもない。男が着ていたら、それは目立つが、そんな色を着て歩く男は、歌舞伎役者か、伊達を気取る阿呆者くらいだ。
「あれ?」
 そこまで考えて、きょろきょろと、あたりを見回した。
 ざわざわと相変わらず騒がしい食堂だが、先程見えた筈の臙脂色の着物を着ている人物が見当たらない。
 食堂でなら、みな席につくから誰が着ている着物か分かると思っていたのに。
「おかしいな?」
 一瞬、考え込んだが、同期の丁稚に声を掛けられて、思考は中断される。
「おい、文吉!ここ、空いているぞ!」
「達治!ありがとう」
 ひとまず、その着物の人物も、探し出せないだけで、この場にいる筈だ。そう思うと、さして気にする事でもないと、文吉は丁稚仲間の確保してくれた席へと座り、ようやくありつけた昼飯に、集中する事を優先した。

「あれ?兄さんは?」
 文吉を食堂へと追い立てて、自分は両親の膳と、自分の膳を用意してもらい、次郎太は家族でいつも食事を取る部屋へと移動した。
 そこに、既に先に飯を食べている筈の兄の姿がない事に気付く。
 誰に聞くとも無く、口をついて出た言葉に、返ってきたのは母親の声。
「あいつだったら出掛けたよ」
「あ。母さん」
 店に出ている時であれば、女将と呼べと、耳朶を思いっきり引っ張られているところだが、今は食事のための休憩中。
 ひと時の家族団欒といったところか。
「え?もう出掛けたの?」
 常連客の凜と、外で会うような話をしていたのを思い出す。
 とにかく、障子を閉めていつもの畳の上に座り、膳が整うのを待つ事にする。
「なんだ。久しぶりに店先に出てきたと思ったのに」
 溜息混じりに呟けば、彼らの母親は眉間に皺を寄せた。
「あいつが大人しく店を手伝うタマかい?」
「そういえばそうですね」
 壮太が店を手伝うのは、気まぐれか、何か目的があってのことか。
「好奇心が旺盛なのはよろしいがね。少しでもその好奇心を、商売に向けちゃあくれないものかね」
「本人に言って下さいよ、そんなの」
「言っても聞かないからお前に愚痴っているのだろうが」
「ああ、そうですか」
 きっぱりと言われてしまえば頷くしかない。
「父さんは?」
 もうそろそろ顔を出しても良さそうなこの店の主が、まだ姿を現さないので、次郎太は呼びに行こうかと腰を浮かせた。
「おや、膳はまだかい?」
 障子が、すい、と開いて、彦江門が顔を出す。
「ああ、父さん。今呼びに行こうと思っていたところですよ」
 浮かせた腰を、もう一度畳の上に落ち着かせ、父の座るのを眺めやる。
「先程、膳を運んで貰うようにお願いしましたから、もう少しで届きますよ」
「やれやれ。腹が減って仕方が無いのだが」
 彦江門が言うと同時に、ほとほとと、障子戸が叩かれる。
「おお、待っていたよ。早くお入り」
 障子戸が開き、おみよを連れて、女中頭のお律が三人の食事を運んで来る。
「お待たせ致しました」
 手際よく目の前に置かれて行く膳に、彦江門はほくほくと嬉しそうだ。
 膳を持って来てくれた二人が、失礼しました、と言って退席すると、彦江門がいただきます、と声を出し、残りの二人も、いただきます、と言って、箸をつける。
 いつもの食卓風景である。
「何か変わった様子はなかったかい?」
 食べながら、彰子の質問に、次郎太は特に無いと告げようとして、少し考える。
「兄さんが此処にいない事以外でしたら、文吉かな?」
「壮太がいなくなるのはいつもの事だろう?」
「文吉が何かしたかい?」
 壮太が、家族団欒の時間にも、断りも無くいなくなるのはよくある事で、夫婦ともに驚きもしない。しかし、文吉は別だ。
 丁稚の中でも真面目で、年齢の割に、文句も言わずによく働く。将来の有望株である。
「今朝、使いに出してから、なんだか落ち着かないというか」
 時折、きょろきょろと、何かを探している風な。
「お使いは、きちんとこなしてくれた様だがね。何かあったかね?」
「さあ、それは分かりませんが。使いの途中で、兄さんに会ったようですけど」
「壮太に会ったからって、仕事中にそわそわする理由にゃならないだろう?」
「それはそうなんですけれどね」
 壮太がふらふらしているといっても、ほぼ毎日顔を合わせているのだから、道端で偶然会ったところで、何かあるわけでなし。
「ふうむ?」
 三人が三人とも、考え込む。
「まあ、あの子が壮太をあまり良くは思っていないっていう事だけは、確かだから」
 彰子が、沢庵に箸をつけながら、溜息を吐き出す。
「ああ。そうですねえ。はっきり、嫌いだって言われちゃいましたしねえ」
「・・・・・・・」
 次郎太の言葉に、夫婦は顔を見合わせて、深く深く、息を吐き出した。
「まあ、そのうち、馴染むだろう」
「壮太の事を理解してやるには、暫く時間がかかるだろうしね」
 もくもくと、朝食を口に運び出した両親に、次郎太は、くすくすと笑った。
「いや、僕だって放っておこうとは思っていないですからね。文吉には、釘を刺しておきましたから」
「釘って、何て言ったんだい」
「兄さんの行動は、ああ見えてきちんと理由があるって、言っておきましたよ」
 壮太の行動の理由。
「お前。そりゃ、理由っていうのか何ていうのか」
「まあ、理由といえば理由か」
 夫婦は複雑な表情をした。
 昔から、人には見えないモノを見てしまう長男坊を、理解できる人物は少ない。
「理由の内容については、あの子は真面目なので、伝えていませんけどね」
 幽霊が見えてしまう体質を、家族でさえ理解するのに時間が必要だった。
 それを、唯でさえ壮太を嫌っている文吉に、理解させるのは難しいだろう。
「まあ、うちの店の全員が、知っているわけではないからね。良いのじゃないのかい?放っておいても」
「そりゃあ、まあ、そうですけれども」
「文吉の行動は、何か探し物をしている様子なのだろう?」
「探し物、というよりは、探し人の様ですが」
「じゃあ、誰か好いた子でも出来たかも知れないし、今日一日、様子を見たらどうかね?」
 柔和な父の顔を見ていると、まあ、そうか、とも思える。次郎太はそれ以上、文吉について、深く考えるのをやめた。
 きょろきょろして落ち着きが無いのは事実だが、それで仕事に差し障る訳でもないのだから、様子は見ていなければならないだろうけれど、そんなに気に留めることでもないのかもしれない。
「それにしても、嫌われている当の本人は、どうしているのでしょうかねえ」
「あれで固定客を掴んで離さないのだから、不思議だよ」
 同性には嫌われても、異性には好かれる壮太は、不思議といえば不思議である。
「女性は敏感な生き物と云いますからね。凜さんなんか、気付いているのかもしれませんよ?」
「そうかもしれないね」
 暢気にそんな事を語りながら、長男を除いた円屋一家の団欒の時間は過ぎてゆく。
 壮太がここにいたら、きっと変な顔をして、家族の会話を聞いていたに違い無い。

「壮太さん」
 声を掛けられて、壮太は振り向いた。先程からくしゃみが出るのは何故だろう。
「やだ、風邪でも引いた?」
「いえいえ。そんな事はありませんよ。きっと、お昼ご飯の家族団欒をさぼったので、次郎太あたりが、ここぞとばかりに僕の悪口を言っているのでしょう」
 家族で自分のことを噂していると決め付ける。あながち間違ってもいないのは、本人の知らぬ事である。
 離れへ戻ってから、外出しやすいように袴を履き、財布を取り出して懐へ入れ、とっとと出て来た。
 艶子は留守番で、そのまま文吉の見張りをしているはずだ。灯子は、もちろん今現在も足元にちょこんと座っている。
 店先でお客に撫でられて、頭の毛が少々跳ねていたので、凜はそれを撫で付けて落ち着かせてくれた。
 壮太の格好は、上は店でも着ていた、さっぱりとした麻と木綿の織物の着物で、袴は紺地の木綿の履き慣れた物だった。女性と会うにはいかがなものかといういでたちだが、なんだか壮太にはしっくりと似合う。
 対して凜は、先程店に来た時と変わらない、浅黄色の柔らかな色合いの着物に、半襟は刺繍の梅の花、帯は染付けの半幅と、彼女らしい粋な着こなしだ。
 近頃は洋服に腕を通す人も増えたが、呉服屋の壮太はもとより、凜も好んで着物を着た。
「日本人に一番似合うのは着物」
 というのが、彼女の持論らしい。
「そこの一葉庵に、皆いるよ」
「そうですか。助かります」
 約束通り、凜はお静に詳しい人間を集めておいてくれたらしい。
「行動が早いですね」
「そりゃ、壮太さんの行動が早いだろうからね」
 人を集めておくと言ってくれてはいたが、今朝の話である。昼過ぎに、人が集まっているとは思えず、壮太はとりあえず凜から話を聞きだすだけと思っていたのだ。
 この短時間に、声を掛けただけで人が集まるのは、凜の人柄ゆえだろう。
 灯子に、店の前で待つように頼み、一葉庵の暖簾をくぐって店内に入れば、窓際のテーブルに、一七ほどの初々しい年頃の娘と、三十路は超えているかと思われる艶のある女性とが、二人向かい合って、カステラを摘みながら仲が良さそうにおしゃべりしていた。
 他に客の姿は見当たらない。昼時で、甘味所は暇らしかった。
「お待ちどうさま」
 片手を上げて軽く挨拶をする凜に、二人とも笑って応える。
「凜ちゃんの頼みだもの。来ないわけには行かないでしょう」
「あんみつとシベリアケーキ追加で許しちゃう!」
 朗らかに二人を迎え入れてくれる雰囲気は、女の子同士特有のそれだ。
「はいはい、いくらでもお代わりをしたら良いよ。ぶくぶくに太ったってあたしの知ったこっちゃないからね」
「凜姉さんひどおい」
「ああ、では、ここは僕の奢りということで」
 にっこりと微笑んで、凜の背後から顔を出せば、黄色い悲鳴があがった。
「きゃあぁ!円屋の壮太さん?ヤダ本物だわ!」
「えっと?」
 予想しなかった反応に、壮太が戸惑っていると、凜が目の前の若い娘の頭を、思い切りはたいた。
「痛い!」
「少しは落ち着きな!壮太さん、この煩いのがあたしの弟子みたいなもんで、三味線屋の禎子。で、そちらの別嬪が、件の木綿問屋で下働きやってるお楊さん」
「あ、よろしくお願いします」
 ぱっぱと紹介を始める凜に合わせ、壮太はぺこりと頭を下げた。
「はい、それで二人とも。もう知っての通り、この人が壮太さん」
「噂に違わず、好い男でいらっしゃる」
「ありがとうございます」
 お楊に褒められ、素直に礼を言う。
 目の細い、パーマネントで緩くカーブした髪に、品の良い簪を挿し、着物も江戸縞の粋な着こなしだ。凜に負けず劣らず艶のある女性だが、凜のような華やかさとは違い、しっとりとした美人、といった感じだ。
「姉さんも壮太さんも、早く座って。はい、お品書き」
 忙しない禎子の方はといえば、お楊と反して長い髪に大きなリボンを飾り、三味線屋というわりには、薄い蜜柑色のワンピースを着ている。大きな襟だけが白くて、印象的だった。
 凜と壮太は、それぞれ向かい合って二人の隣に座り、禎子の差し出したお品書きに目を通す。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか?」
 薄い紅花染めの紬に、白いフリルの前掛けをした給仕の女の子が、新しく増えた客の二人に、グラスに水を入れて持って来てくれる。
「あたしはみたらしと、お茶のセットで」
「じゃあ、僕は特製饅頭と、ほうじ茶で」
 凜と壮太がさっさと注文を決めると、給仕はにっこりと営業用の笑顔を残して、早々に店の奥へと引き返し、間を置かずに、注文の品を盆に乗せて戻ってきた。
 余程暇なのだろう。
 目の前に並べられた甘味を眺めて、壮太はふと、不安になった。
「この店、美味しいのですか?」
 昼時は食堂に客が流れるとはいえ、あまりにお客の数が少なすぎる。それは、この店に何か問題があるからなのではないのか。
「大丈夫よ。味は保証するわ。甘味所っていったって、普通は甘くないようなものも置くのだけれど、この店は店主が心底甘党でねえ。ランチ用の軽食くらい置けば良いのに、本当に甘いものとお茶しか置いていないから、昼時はよっぽど甘党のお客しか寄り付かないのさ」
 なので、買い物客や、使いや何かの用事の寄り道、仕事の合間の休憩などに使用する客が自然と多くなり、どちらかといえば昼過ぎから夕方に込むのだそうだ。
 ためしに、自分が注文した特性饅頭とやらを、ちょっと摘む。
 しっかりと練った漉し餡が、甘過ぎず、程よく舌の上で溶けて、しつこさが残らない。
「なるほど。特製ですか」
 女性は総じて、こういう凝った甘味は大好きだろう。
 この店が、彼女たちの集合場所というのはなんとなく理解できた。
「でも、あの。こんな所で亡くなった方のお話を伺うのは気が引けるのですが」
 壮太が、なんとなく気を使えば、彼女たちは一瞬、きょとんとこちらを見詰めた。
「・・・やあだ、壮太さんったら、変なところに気を使わないでおくれよ」
「そうですよ。気にしないで下さいな」
「お静ちゃんはねえ、このお店が大好きだったの。だから、彼女の話をするならって、ここにしたの」
 お静が気に入っていたという店で、彼女を偲んで話がしたいと、彼女たちはこの店を選んだのらしい。
「そうですか。本当に、趣味の良い女性だったようですね」
 出される菓子の味もそうだが、この一葉庵は内装もアンティーク調で、落ち着いた調度品に、店内に流れる曲も、異国の音楽ではあるが、煩くもなく、それでも調子の良い曲だ。 
 最近流行りだしたものだが、流行る理由も分かる気がする。
「そうなの。お静ちゃんはね、そりゃあ、確かに美人ではないけれど、だからって、そんな醜い顔をしていたなんて思わないわ。口が大きくて、肌も黒かったけど、彼女なりにお洒落に気を使っていたし、お化粧だって、自分に似合うものをって、落ち着いた色を好んでいたわ。確かに似合っていたし、趣味はとても良くて。私だってお洋服や着物を買う時は、お静ちゃんに見立ててもらうくらいだったんだから」
 禎子の今日の服装も、お静が選んだものだという。
 薄い蜜柑色のワンピースは、彼女の長い黒髪と、活発そうな大きな眼、肌は白い方だろうか。それらをきちんと映えさせて、おまけに彼女の明るい性格にも合っていて、とても似合っていた。
「お客さんもね、彼女に見立てを頼む人が多くてね。誰もあの子が気にするほど、あの子の顔をとやかく言う人はいなかったくらいで。旦那様も、お静ちゃんのおかげで、お客さんが増えたって、彼女を可愛がっていたし。本当に良く働く子で」
 お楊は、目線を落として、そっと目元を拭った。
「すみませんね、しんみりしちゃって」
「いえ、お辛いのに無理に話して頂いて、申し訳ないのはこちらですから」
 にっこりと笑い返す。
 大抵の女性は、この笑顔でくらりとするらしいが、壮太自身に自覚はない。
 壮太はどちらかといえば子供っぽい顔立ちで、歌舞伎役者のような美形というわけではない。
 それでも整っている事に変わりはないが、本人は自分の顔には無頓着なので、母や弟に、無精髭を注意される事もしばしばある。童顔に髭が生えれば似合わない事この上ない。
 しかし壮太が髭を剃る理由は、灯子が嫌がるから、それのみである。
 それでも世の女性たちは、壮太の顔がお気に入りらしい。
 そんな壮太の顔を、お楊も、凜も、禎子も、揃ってじっと見つめている。
「あの?」
 さすがに気になって、自分の顔がどうかしたのか聞こうとした。
「あー、お静ちゃんって、こんな感じよね」
「は?」
 口を開きかけた壮太を遮って、唐突に口を開いた禎子の言葉は、わけが分からない。
「そうねえ、壮太さんみたいに顔が整っているわけではなかったけれど」
「人好きのするというか、内面から人の良さが滲み出るっていうか」
 その内面の人の良さが顔にも表れていて、魚みたいに小さくて離れた目も、大きな口も、色黒さも、愛嬌になっていたのだという。
 ここに艶子がいれば、壮太に愛嬌があって人が良いのだとしたら世の中平和で救われまくりだわ、などと言いそうだ。
「ええと、何だか知りませんが、それはとてもお静さんに申し訳がないような気がします」
 これでも自分がいいかげんな性格だと自覚している壮太だ。そんなに真面目で良く働いていた人と、自分の内面が似ているなどと、なんとなくお静に悪いような気がした。
「そんなお静さんに、何があったのでしょうねえ?」
 人当たりも良く、客足を増やすほど趣味も良くて働き者だった彼女。けして美人ではなかったというが、内面から滲み出る性格の良さで、その顔には愛嬌もあったらしい。
 本人は気にしていたとはいえ、さほど不細工でもなかったように思える。
「そうね、あのトンチキの染物問屋。何といったかしら」
 口に出すのも腹立たしいとばかり、お楊が袖を口元に当てながら、眉間に皺を寄せた。
「川田屋よ。川田屋の達之介。見合い相手にしようとしていたのは、紋二郎らしいよ」
 茶をすすって、みたらし団子を口に放りながら、凜が付け足す。
 この店のみたらし団子は、串に刺さずに、そのまま皿に盛られてタレがかけてある。竹の爪楊枝で食べるのが独特で、これが食べ易くて旨い。
「紋二郎って、あの紋二郎?」
「その紋二郎」
「あら、意外」
「あれ?お楊さん、知らなかったの?」
「だって教えてもらえなかったもの。相手が紋二郎だって分かっていたのかしら、お静ちゃん」
「そうさねえ、分かっていただろうねぇ」
「川田屋の主人って、本当に腹が立つわ」
 どんどんと、壮太を置いて女三人で何やら話が進んでゆく。
「紋二郎というのは?」
 口を挟んでおかないと話が分からなくなりそうで、壮太は三人の中に、無理やり割って入った。
「壮太さんはご存じないの?」
 禎子が、首を傾げて不思議そうに、質問に質問で返してくるので、壮太は腕を組んで考え込む。
 染物問屋の川田屋は、円屋とは商売での付き合いが無いので、名前くらいしか聞いたことがない。
 その川田屋に居たという紋二郎という人物。
 何か有名なのだろうか?
「すみません、俺には分かりかねます」
 染物問屋は円屋も贔屓にしている店がいくつかあるのだが、その中に川田屋は入っていない。
 父の彦衛門が相手にしていなかったくらいなのだから、店の経営に問題があるのか、もしくは店の主の人柄が問題なのか。
「円屋は商売相手を選ぶのが巧いからねえ。壮太さんが知らないのも無理はないのかもしれないよ」
 にっこりと、凜が微笑む。
「紋二郎っていうのは、川田屋きっての出世頭で、行く行くは店を任されるのじゃないかとまで噂されていた人物なんだよ」
 染物の腕も然る事ながら、店で染めた反物や小物を売るのも巧かった。
 新しい事にも挑戦する新進気鋭の染物職人で、歌舞伎小屋からの注文も多かったという。
「歌舞伎では、手拭やなんかを客に配ったりするからねえ。柄の奇抜さも重要だし、色も気を使う。役者の幟旗や、暖簾なんかも染めていたらしいから」
「両国からの注文も多かったって、うちの旦那さんが仰っていたくらいだから、繁盛はしていたようだよ」
「それもこれも、紋二郎が居たから出来た事さ」
 つまり、紋二郎という職人のおかげで、俄かに店が活気付き、商売も成り立っていた、いわゆる成金、というものらしい。
「そんな人なら、普通、自分の養子にするものじゃないのかな?」
 店を任せるほどの人物となれば、その家に娘が居れば婿として迎え入れるか、そうでなければ直接養子にするか。それが普通だ。
「それが、何を考えたのだか。暖簾分けをすることになって」
「は?暖簾分け?」
 大きな店ともなれば、様々な理由はあるにしろ、暖簾を分けて店を増やし、更に店を大きくする場合もある。
 しかし、店を継がせられるような人物を、暖簾分けで追い出してしまっては意味がない。新しい店舗で修業を積ませるにしても、いざ、本店を継がせた時に、二店舗目はどうするのか。 他に有望な職人がいるなら良いが、三人の話を聞く分に、そういう事でもないらしい。
 それではリスクが大きい気がした。
「川田屋の主人が、紋二郎に店を継がせる気が無くなったらしいわ」
「それはまた・・・。どうして?」
 禎子が、カステラを一切れ、ほおばった。
「どうもね、紋二郎の才能を、妬んだのじゃないかって話よ?」
「・・・・川田屋の主人が、ですか?」
 お楊も、禎子も、こくりと頷いた。
「要するに、自分の代で築き上げた財を、紋二郎に追い越されそうになって、悔しくなったのよね。その財だって、紋二郎が職人として成長するまでは、たいしたこともなかったのだけど」
「頭が固いからねえ。あの達之介って人」
 昔は、法事や町の小売店に卸す小物を扱った、小さな店であったらしい。それが、紋二郎の染物が評判になるに従って、お抱えの職人も、紋二郎に習って自由な色や柄を染めるようになり、それが更に評判を呼び。
「職人たちの自由にさせたところまでは良かったんだけど」
「それが、紋二郎が有名になればなるほど、達之介が彼に辛く当たる様になって、店の中もかなり険悪だったらしくてね」
「ああ、それで暖簾分けですか」
「そういうことだね」
 自分より才能に溢れる人物を、店の跡継ぎにするのは悔しい。なら、暖簾分けをして、新しい店の店主にしてしまえば、誰も文句は言うまい。
 店主は店主だ。それで皆納得するだろう。
 そんな考えであったらしい。
「馬鹿ですねえ」
 ずず、と、ほうじ茶を一口飲んで、壮太は一言そう口にした。