「意地悪したら駄目ですよ。灯子は、僕の恋人ですからね」
「おや、どちらが意地悪なんだい?心配しなくたって、灯子ちゃんは私のお気に入りの可愛い子だよ。意地悪は壮太さんにしかしないから、大丈夫さ」
 にっこりと、革のバッグから財布を取り出して、艶かしい常連客は、壮太の薦めた、西洋の大きな薔薇を染め付けた、粋な柄の反物を注文した。
「円屋の長男坊が、店先に出ないのは、愛犬の機嫌が悪くなるからだ」
 そんな噂がある。
 あながち、違うとも言い切れないのだが、本人曰く。
「灯子はそれくらいで機嫌なんか悪くなりません」
 という事らしい。
 ただ、女性客を相手にしている主人を見つめる灯子の瞳が、寂しそうなのは事実なので、壮太がなかなか店に出ないのは、そんな理由と、後は単に、面倒だから、なのである。
「ああ、そうだ。凛さん、木綿問屋のお静って、知っていますか?」
「お静ちゃん?この前死んじまった、あの子かい?可哀想にねえ」
 反物を包みながら、思い出したように話を振った。
 憂えた貌で首を傾ければ、着物の襟から覗く白い首筋が目に毒である。
 この客人。色っぽいのも当然で、花街の花魁だったお人だ。その花街も、今や解体されて久しい。
「お静ちゃんは本当に良い子でねえ。そりゃあ、働き者で、可愛い子だったよ。まったく、男っていうのは、どうして見る目の無い奴が多いのだろうねえ」
 意外にも、凜はお静を知っているようだ。
「でも、お見合いしたんでしょう?」
 すっ呆けて、壮太はお静の話を進めた。
「あらあら。知らないのかい?壮太さんともあろうお人が」
 少し驚いた様子で、凛は目を見開いた。
「済みません。お見合いしたくらいで、人が亡くなるなんて思えなくて。僕にもこの頃見合い話があるものですから」
 相手を傷付けずに断る方法を知りたくって、などと、へらりと笑ってみせた。
「なんだ。知っているんじゃないか」
 凛はにこりと笑う。
「でも、ちょっと間違っているよ。見合いはしていないのだからね」
「見合いをしていない?」
 それについては知っていたが、わざと話の先を促した。
「・・・・ふうん?まあ、いいさ」
 右の眉を、くいっと上げた凛だったが、促されるままに話を進めた。
「見合いの話を進めていたのは事実だけどね。その見合いの打ち合わせに、相手の染物問屋の旦那が、多岐衛門の旦那に会いに来たことがあってね」
 知っていて当然と、どんどんと話を進められて、壮太は少々焦った。
「え、えっと、染物問屋が木綿問屋のお静さんのお相手の居る店で、多岐衛門さんっていうのは茜屋の?」
 茜屋というのは、木綿問屋の多岐衛門の店の名だ。
「そう。茜屋の旦那。なんだ。そこまでは知らなかったのかい?」
 こっくりと、素直に頷けば、凛の顔に満面の笑み。
「よし。本当に知らないのだったら、ちゃんと教えてやろう」
「あれ?」
 話を聞き出すために、あまり事のあらましを知らないような振りをして、凛の気を引いた事は、やっぱりばれていた。
 人というのは、自分の知っている事を、相手が知らないと思えばそれだけで優越感を持つ。そこをつついて、色々と聞き出そうとしたのだったが。
「この凛に、小賢しい手は通じないよ?壮太さん?」
 むに、と、頬をつねられた。
「済みません」
「解れば良いよ。何か事情持ちかい?」
 くいっと、顔を近づけられる。
 伏し目がちに見上げられれば、普通の男であれば、それだけで彼女の虜になるだろう。
 そんな色艶な目線にも、壮太はびくともしない。
「あんまり顔を近づけると、ぶつかっちゃいますよ」
「おや、つれない」
 つ、と、凛は壮太から身を離す。
「いつか、壮太さんを泣かせてみたいのだけどねえ」
「何を仰いますやら。僕はいつだって、凛さんに泣かされていますよ」
 そう言えば、凜はくすくすと笑った。
 それを見ていた店子の男衆は、一様にまん丸に目を見開いて、動きが止まる。
 女将が手を鳴らしながら急き立てれば、皆顔を真っ赤にしてそそくさと仕事に戻って行く。
 それだけ色っぽい凜に、壮太は顔色一つ変えないのだから、ある意味大物だ。
「嘘吐き」
「そうですか?」
「ああ。世の男が、みぃんな、壮太さんみたいだったら良いのに」
「それは、どうなんでしょう?」
 皆が皆、仕事をさぼって絵を描いてばかりいては、世の中回らなくなってしまわないだろうか。
「俺としては、弟の次郎太みたいなのが沢山いたら、世の中平和に円滑に回ってくれるのじゃないかと思うのですがね」
「そりゃあ、次郎太さんも、好い男だけど」
 沢山の男共を陥落してきた凜の色気にも微動だにしない。下心で近づいてきた女などは論外で、相手にもしない。
 たとえ客であろうがなかろうが、彼の人を見る目は平等に容赦なく、確かだ。
 人の真髄を、損得に流されずに、しっかりと見据える心根があるのが、壮太だった。
「本人が気付いていないのが、玉に瑕なんだけどねえ」
 思わず、壮太の頭を撫でる凜だった。
「凜さん?」
「ああ、可愛いねえ、壮太さんって」
 告げられた言葉に、きょとんとする。
「俺を可愛いという人は、凜さんくらいですよ」
「そうかしら?ここにいる女達は、皆壮太さんの事は、可愛いと思っていると思うけど」
 凜相手では勝ち目が無いので、そわそわ、チラチラと、こちらの様子を伺っていた女客達に、凜は目線を流す。
 皆、そそくさと視線をそらした。
「まあ、茜屋の話が聞きたきゃ、甘味所にでも誘っておくれよ。詳しいのを取り揃えておくからさ」
「本当ですか?それは有難い」
 思わぬ申し出に、壮太は本気で安堵の吐息をもらした。
「何をそんなに調べているやら解らないけれど。壮太さんの事だ。訳ありなんだろう?」
 凜がにっこりと笑うので、壮太も、にっこりと笑い返す。
「凜さんは話が早くて助かります」
「貸しは高い方が良いからね」
 ひらひらと、手を振って円屋の暖簾をくぐってから、外にいる灯子の鼻先に接吻をして、からころと下駄の音も軽やかに、凜は帰って行った。
「何?兄さん、また何か揉め事?」
 ひょい、と、隣から、手にした反物をくるくると器用に回して片付けながら、次郎太が顔を出す。
「またって、俺はそんなに揉め事を起こしているつもりは無いぞ」
「もう既に揉めているよ」
 次郎太が巻き終わった反物で店内を示す。
 従業員は凜の出て行った先を、鼻の下を伸ばしてぼうっと見つめ、女性客達はそれぞれに、凜のおかげで壮太に近づけずにいた分、今にも壮太に襲い掛かりそうにむずむずしている。
 すかさず次郎太が傍に来たおかげで、揉みくちゃにされずに済んだらしい。
「じゃあ、僕は仕事に戻りますから、くれぐれも商品に傷は付けずにお願いしますよ」
「お前、この頃俺に冷たかないか?」
「まさか?やっかんでなんかいませんよ?この色男」
 睨んでやれば、けろりと返される。
「凜さんが、お前も好い男だって言っていたぞ」
「ほうほう。それは光栄ですが、凜さんは結局兄さんが好いのでしょう?」
 ぱん!ぱん!と、手を叩いて、男衆の気を引くと、次郎太は一言。
「ほらほら、また女将にどやされたいかい?」
 女将の名が出た事と、実は次郎太自身も、怒ればしっかりと恐ろしいので、でれりと凜の色香に浸っていた男衆は、一斉に身を正して仕事に戻る。
 店が元に戻った事を確認すると、次郎太は店先を兄に任せて、あとは店の奥にさっさと引っ込んでしまう。そうでもしないと、壮太が抜け出してしまうからだ。
「ああん、壮太さん、こちらとこちら、どちらが私に似合うかしら」
「そうですね、そういう物よりは、こちらのお色とお柄であれば、お客様のお顔が映えて宜しいですよ」
「壮太さん、私にも見繕って下さる?」
「はい、喜んで。ああ、庄治、こちらの方にこの反物を合わせて差し上げて」
 ぽんぽんと、女性客に反物を選んでゆく。
「どんな時にお使いの御用で?普段着であればこちらの小紋など」
 俄かに店内が忙しくなる。
「ああ、文吉。どこへ行くんだい」
「へえ、女将さんの所へ」
 目端に、文吉の小さな姿が見えて、壮太は引き止めた。
 傍には見えないが、きっとどこかに艶子がいる。
「じゃあ、この柄の見本帳を、ついでに持って行ってくれるかい?」
「へえ。女将さんにお渡ししたら良いんで?」
「女将のところに次郎太もいるだろうからね。次郎太が欲しがっていたものだから、奴に渡してやっておくれ」
 次郎太贔屓の文吉は、ぱっと嬉しそうな顔をする。
「へえ。解りました。失礼します」
 声を掛けた時は、あんなに面倒臭そうな表情をしたくせに。
「あの子も現金だねえ」
 前掛けをぱたぱたと揺らし、行き交う人の波を縫って店の奥へと急いで行く。
「・・・・・ふむ」
 その後姿に、臙脂色の影を見て、壮太は首を傾げた。
「本当に、くっついているのだね」
 少し離れていたりするものかと思っていたが、お静の影は、文吉にぴったりとくっついているようだ。
「だから、面倒だって言っているのよ」
 ぼそりと聞こえた声は足元から。
 見れば、黒猫がいつの間にやら足元にいた。
「じゃ、また後で」
 一言告げて、さっと姿を消してしまった。
「ふむ?」
 文吉は、まだ自分が幽霊などに取り憑かれているなどと、気が付いてもいない様子だった。
「口で言っても理解してくれそうにないしねえ」
 壮太が何か言った所で、川縁の枝垂桜の時と同じ様に、からかっていると思われて終わりだろう。
「どうしたものか」
 兎にも角にも、文吉には気付いて貰いたい。
 かといって、どうしたら信じてもらえるものか。
 それとも、自分で気付いてもらうのを待つか。
 臙脂色の影は、悪さをしようという雰囲気ではなかった。お静はただ、自分の姿を写した絵を、綺麗だと言ってくれた文吉の傍にいるだけなのだろう。
 では、壮太自身が、彼女を綺麗と言えば、文吉から離れて、壮太に鞍替えしてくれるのだろうか。
「もし、実行するとして、彼女に聞こえるように、不自然でなく言わなきゃならないし。難しいなあ」
 着物の仕立ての寸法を測りながら、壮太は文吉と黒猫が入って行った帳場を目端に見るのだった。

「困ったわね」
 こちらにも、困っている猫が一匹。
 思っていたよりも、お静は文吉にぴたりと憑いて離れない。
「此れじゃ、本当に狩り様がないじゃない。やっぱり、いっその事さっくりと」
 文吉を見張りながら、部屋の奥にある帳簿の詰まった棚の上で、尻尾をぱたぱたと、機嫌悪く振りながら物騒な発想をする。
 死神の魂を狩る道具は、大概刃物だ。
 それぞれの国や、死神本人の好みで形状は変わるが、刃物で魂と肉体とを切断して、冥途へと連れて行くのが普通だ。
 今回のような、死んでもフラフラと彷徨っている幽霊となってしまった魂の場合、何かしかの未練が、この世に魂を繋ぎ止めてしまっている。だから、魂と未練をその刃で断ち切ってやれば、冥途へと連れて行ける。
 しかし、取り憑いてしまっているとなると、取り憑かれた相手の魂まで切ってしまうおそれがある。
「壮太はどうするのかしら」
 先程、店の常連らしい女と何がしか話をしていたが、情報らしい情報は聞き出せていないようだった。
「さっさと仕事をしないと、閻魔様に怒られちゃうじゃない」
 愚痴る艶子だったが、標的の霊ごと、憑かれた相手の魂まで狩ってしまえば、それこそ閻魔の雷が落ちるだけでは済まされないだろう。関係のない人間の寿命を、勝手に切り取ってしまうことになるのだから。
「死神は魂を狩って、冥途へ連れて行くしか出来ないっていうのが、そもそも面倒なのよ」
 人間の、霊媒師とかいう連中みたいに、追い出すなり、無理やり引っぺがすなり出来たら楽なのに。
 それでも、その霊媒師という人種そのものが、大概は嘘っぱちで、本当に霊を払っているのかといえば、まともに払えている者など、艶子はほとんど見たことが無かった。
 そもそも、何か原因不明の凶事等が起きた場合、悪霊のせいにして、さあ、払いました、後はこうしなさい、そうしたらもう大丈夫、等と言ってやれば、相談に来た連中は安心するのだから、結構大げさな人生相談なのかもしれない。
「本物の御祓い屋も、いるけどね」
 壮太がそれなら、話は楽に進んだだろうに。
「あいつは見えて絵が描けるくらいだから」
 その絵で、霊の束縛が出来るのだが、地縛霊などには意味がない気がする。それでも、うろうろされるよりは良いのかもしれないが。
「おや?」
 壮太が、帳場へ顔を出した。
「こっちに、艶子はいませんか?」
 どうやら自分を探しているようだ。
 にゃあんと、一声鳴いて、棚から壮太の頭に飛び乗った。
「あれま。いつの間に入って来ていたのかね」
 艶子に飛び乗られ、首を捻って痛がる壮太を、女将の彰子が驚いて見やる。
「さっき、入って行ったのを見たので、まだいるかと思いましてね」
 首をさすり、ずるりと頭から背中に落ちた艶子を、壮太がおんぶする様に後ろ手で支えた。
「もうお昼だろ。客が引いたなら、皆に交代で昼飯を食べさせてやっとくれ」
「今、やっていますよ。さっき次郎太が呼びに来ましてね」
 手の空いた者から、順番に、食堂代わりの土間へ向かわせているのだと説明を付け足せば、彰子はくるりと帳場を見渡した。
 ぱちぱちと算盤を弾く音も、まばらになっているようだ。午前中の仕入れと出荷、売れた分の清算と仕立て屋への配送準備なども、ひと段落が着き始めているのだろう。
「ふむ。じゃあ、計算が終わった連中から休憩に入っとくれ。ああ、その訪問着はそっちじゃないよ!洗い張りに出すんだよ。大事な品なんだから、間違えないどくれよ!」
 てきぱきと指示を出す。
「お前も、サッサと飯を食べな。どうせ午後から出掛けるんだろう」
 ふん、と、腕を組みながら、鼻息混じりに彰子は自分の長男坊を睨んだ。
「よくお分かりで」
「凜ちゃんの声がしていたからね。それに、大体その黒猫がいる時は、あんた出掛けるじゃないか。・・・灯子が泣くよ?」
「浮気なんかしませんよ」
 呆れ半分に言われれば、へらりと笑って返す。
「じゃあ、有難く、抜け出させて頂きますよ」
 艶子を背負ったまま、帳場を出て行く壮太の背中を、文吉が睨んでいるのを、艶子は見逃さなかった。
「やれやれ。相当嫌われているわねえ」
 ぼそりと呟けば、壮太も気が付いていたらしく。
「文吉は次郎太贔屓だからね」
 笑いながら答える。
 文吉の、真っ直ぐで、そういうところが可愛いらしい。
「まあ、それでついついからかってしまって、余計に嫌われてしまうのだけど」
「分かっているなら改善しなさいよ」
「嫌です。からかうと面白いのだもの」
「この、天邪鬼」
 廊下で擦れ違う使用人たちが、一人でくすくす笑いながら通り過ぎる壮太を、足を止めて振り返るのも構わずに、楽しそうに自室である離れへと向かうのだった。