「早かったじゃない」
「お湯が沸いていたからね」
 起き上がった艶子の向かいに座って、急須にやかんを傾ければ、熱そうな湯気が立ち上る。
「玉露じゃないの?」
「僕はほうじ茶のほうが好きだからね」
「どっちでもいいけど」
 そこで、二つの湯飲みにほうじ茶を注ぎながら、壮太は艶子の顔を見やった。
「ああ、艶子は猫舌だっけ?」
 黒猫に変化するのだから、熱い飲み物は苦手だろう。
「ちゃんと手元を見て頂戴。零れるわ」
 ぴしゃりと叱られた。
「玉露だったら、少し冷ますから、丁度良いのよ」
「やっぱり猫舌なんだ」
 くすりと、小さく笑う壮太に、すい、と目を細めて、艶子は答える。
「何か可笑しいかしら?」
 ひやりとした空気に、壮太は慌てて湯呑みを艶子の目の前に差し出した。
「それで、文吉なんだけど」
「自分が取り憑かれているって気が付いているのかしら」
「うん、それはまだじゃないかな。ついさっきの事だし」
 ずず、と、湯呑みを傾けて、壮太は開け放した障子の向こうに見える母屋を見やった。
「今のところは平穏だけど」
「お静自体、人に恨みを持つような娘ではないから、騒ぎは起こさないんじゃないかな」
 また、ずず、と一口、茶を啜る。
「あら、知っているの?」
「そりゃあ、うちは呉服問屋だから、木綿問屋とは懇意にさせて頂いているしね」
 それはそうだが、店先に滅多に姿を現さない壮太が、商売先の木綿問屋と懇意にしているなどとは思いも付かなかった。
「壮太もたまにはまともに仕事しているのね」
「絵描きだって、僕のお仕事なんだけどなあ」
「人間のお仕事よ。あんたのとこ、長男坊がさぼり過ぎるから、次男坊が店を継ぐのでしょ?」
 頬杖をつき、ようやく頃合になったほうじ茶に口を付ける。
「はは。痛い所を突くね」
 ちっとも痛いとも思っていない顔で笑うのが憎たらしい。
「とても性格の良い娘だったみたいね」
「うん。だから、今回の事は可哀想でね」
 ああ、だからか、と、艶子は思う。
 普段、幽霊を描く時は、その人物の顔も着物も、きちんと描く壮太が、お静だけは後ろ姿だった。
 彼女の死因にもなった彼女の顔を、描くのは忍びなかったのだろう。彼女は死んでしまった今でも、自分の顔で悲しんでいる。
「女の子の顔を醜いなんて言う男って、最低よ」
「まだまだ、世の中男女平等というわけにはいかないからねえ」
 女性が選挙権を得たのはつい最近だ。この国はまだまだ、欧羅巴諸国に追いつくには程遠い。
「まあ、仕方ないわ。こうなった以上、取り憑いたお静を文吉から引き剥がさない限り、うっかり文吉の魂まで、斬ってしまいかねないから」
「君の刀でどうにかならないの?」
「あんたね。あたしが刀を振り上げて、文吉は大人しくしてくれる?」
「・・・・・寝込みを襲うとか」
「嫌あよ、そんな馬鹿な事」
 しゅるりと、艶子は黒猫に姿を変える。
「取り敢えずは、何か方法が見つかるまでは様子見ね。ホント、いっそ悪霊にでもなってくれたら、無理にでも引っぺがしてしまえるのに」
「だから、艶子は発言が時々過激だよ?」
 つい、と、自分の脇をすり抜けて、外へ向かう艶子の尻尾を掴む。
 がり
 思いっきり爪で手の甲を引っかけば、慌てて手を離した。
 血が滲んでいたが、自業自得というものだ。
「今度やったら噛み付くからね?」
 黒い瞳に睨まれて、亀みたいに壮太は首を窄めた。
「しばらく、文吉から目を離さないようにするから、壮太は潰れた店について調べて頂戴」
「今更調べた所で、どうにもならないと思うけどな」
「あとは、木綿問屋ね。旦那に会ってお静について聞いて頂戴」
 嫌々そうな壮太の発言は一切無視をして、艶子は壮太の離れを後にした。
 この際、お静の自殺の原因となった見合い先の旦那に、頭を下げさせるなり、お静の気の済むようにしてやりたかった。
 問題は、彼女が自分の顔について、どうしたら納得してくれるかだ。
「多分、原因を取り除きさえすれば、お静は文吉から離れてくれるんだろうけれど」
 一度人に取り憑いた霊を、成仏させてやるのは色々と面倒くさい。一人でふらふらしていてくれれば、無理にでも狩って冥途へ連れて行けるのに。
「下手をすると、取り憑かれた人間の魂まで一緒に狩っちゃうのよね」
 それに、言われるほど醜い容貌でもなかったというのに、女性に対して酷い言い様ではないか。
 お静を哀れにも思うし、同じ女として暴言を吐いた本人を許せなかった。
 たとえ店を潰されたにしても、同情心すら沸かない。主がそういう人間なら、下の人間はたいそう苦労していただろう。
 壮太の店とはとても違う。
 円屋は、それはもう主夫婦がしっかりしているものだから、下の人間は活き活きと働いている。
 旦那の彦江門は商売の引き際も攻め際も心得ていて、女将の彰子は使用人の扱いが巧かった。
 店の下男下女の、親役をしっかりと務めている。
 ゆえに、使用人の信頼も厚く、取引先からも、商売を見極めるなら円屋を習え、とまで言われるほどに信用されていた。
 私利私欲に走ることなく、商売の本質を貫く姿勢は、次期当主の次郎太にも引き継がれている。
 店は客のため、使用人のためにある。
 その思想が変わらない限り、円屋は繁盛するだろう。
 そんな家に生まれながら、壮太は何故ああも飄々としているのか。
「不思議だわ」
 それでも次郎太なども、兄さん、兄さんと言って、慕っているので謎は深まるばかりだ。
 ふう、と、艶子はひとつ、ため息をつく。
 自分だって、いくらあの男の能力が便利だとはいえ、何だかんだと壮太を相手にしているのだから、人の事を言えたものではないのだ。
 店から威勢の良い声が聞こえる。
 開店して、いよいよ忙しくなって来たらしい。
 艶子は勢いをつけて走り出し、母屋へと向かった。
くうん
 艶子の去った、母屋の方角に向かって灯子が心配そうに咽喉を鳴らした。
「何、心配することは無いよ」
 縁側に腰を下ろし、隣に座る灯子の頭を撫でながら、壮太も母屋を見やった。
「ああ見えて、艶子は優しいからね」
くうん?
 首を傾げる灯子に、壮太は笑った。
「灯子は心配性だねえ」
 そう言う壮太本人は、文吉に取り憑いたお静をどうするつもりなのか。
 艶子と灯子の心配を他所に、まるで人事のような壮太である。
「さって、と。そろそろ行きましょうかねえ?灯子」
 大きな伸びをひとつすると、盆に茶の道具を乗せ、空になったやかんを持ち、ゆっくりと母屋へと向かった。

「兄さん!何?手伝ってくれるの?」
 珍しく店先に顔を出した壮太を、次郎太が見つけて手を振った。
「たまには、長男らしいことをしないとね」
 にっこりと笑い返す壮太の頭を、衝撃が走る。
「い、痛い」
「当たり前だ!」
 振り向けば、拳を握り込んだ美女。
 兄弟の母であり、この円屋の女将である彰子が、艶やかな唇を歪ませ、こめかみに血管を浮き上がらせて立っていた。
「なあにが、長男らしいだ。だったら毎日店に顔を出しな!」
 纏めて結い上げた髪は、年の割りに白髪もなく黒々と滑らかで、東京でも評判の美女である。老若男女問わず、ファンは多い。
「ほっほ。さっそく殴られたか。灯子はどうした?」
 騒ぎに番台の奥から、この店の主が顔を出す。
 ころんとした体形だが、けして背が低いわけではない。柔和な顔は、円屋の次男坊に引き継がれている。
 仏の彦江門と呼ばれているが、商売では絶対に妥協しない。一部では、仏の面を外せば般若の円屋、とも呼ばれている。
「お父さん。お早うございます」
「おう、お早う」
 母に殴られた頭をさする壮太を、幾人かの使用人がくすくす笑いながら通り過ぎた。
「灯子は店の中にまで入れる訳にはいきませんから、看板娘になってもらっていますよ」
「ほ」
 見れば、ちゃんと店の入り口の脇に座って、暇そうに欠伸などしている。時折、通行人に頭を撫でられて、しっかり集客に役立っているようだ。
「灯子の方が、お前より良い仕事をしているのじゃないかね?」
「そうかもしれませんね」
 ぱたりぱたりと、客に頭を撫でられながら、右巻きの尾っぽを振る白犬を見て笑う親子の間を、次男坊が割って入る。
「兄さんも父さんも、立ってるだけなら商売の邪魔ですよ。ほら、動いて動いて」
 邪魔者扱いされて、二人は顔を見合わせた。
「やれやれ、次郎太には、もう負けとるなあ。わしも年を取ったもんだ」
「段々お袋殿に似て来ましたね」
 彦江門が頭を掻きながら帳場に戻ろうとするのを、後ろから壮太が着いて行く。
「兄さんは引っ込まないで下さい」
 着物の袖を引っ張られ、ずれた襟を直しながら弟の顔を見れば、さも、壮太が悪いというように、眉尻を上げて睨まれる。
「なんだい、帳場の手伝いをしては駄目なのか?」
「何を言っているんですか。兄さんが店に出て来たからには、接客以外に仕事はありませんよ」
 ぷりぷりと頬を膨らませ、次郎太はせかせかと兄の背中を押して、店先に追いやった。
「きゃあ!壮太さん、今日はお店にいらっしゃるの?」
 目ざとい女性客が、早々に壮太を見つけて群がって来る。
「壮太さんったら、滅多にお店にいらっしゃらないのですもの。今日はわたくし、運が良かったわ」
「あら、壮太さん、居るなら居るって仰いなさいな」
「ちょっと、この生地はどうかしら?」
 一斉に話し掛けられても、そこは手馴れたもので、愛想良く笑いながら、壮太は娘たちを捌いてゆく。
「申し訳ございません。もう一つの仕事が手が離せないものでして。でも今日はこうしているのですから、お相手させていただきますよ。ああ、こちらの生地より、お甲様にはこの紅花の織物などいかがです?」
 それでも、隙を突いて次郎太の腕を、ぎゅっとつねってやるのは忘れない。
 別に接客が嫌なわけではない。
 むしろ、綺麗で可愛いお嬢様方のお相手は大好きだ。店の品を買ってくれれば更に良い。
 しかし。
「灯子、入って来ちゃ駄目じゃないか」
 すり、と、足元に擦り寄る犬の頭を撫でてやると、寂しそうに、くう、と鳴いて、また入り口に戻って行く。
「あの子、本当に壮太さんの事が好きだよねえ」
 赤い唇が艶かしい、常連客が灯子の背中を見て呟けば。
「僕も灯子が好きですからね」
 壮太も、いつも通りの返答をする。
「はい、はい。憎たらしい。そういうところが、また良いのだけど」
 長くて綺麗な指で、壮太の顎を上向かせる。
 彼女は壮太より身長が低いので、上向かせた壮太を、自分も顎を上げて見上げる事になるのだが、これがまた、色っぽい。
「それは、ありがとうございます」
 その色っぽさに微動だにせず、にっこりと微笑み返せば、鼻を摘まれた。
 店の若衆は口をぽかんと開けて、そのやり取りを見ている。みんな思うことは同じだ。
 ・・・とっても、凄く、勿体無い。
わう!
 灯子が入り口から心配そうに吠える。
「心配しなくても、灯子ちゃんには負けるよ」
 べっ、と、彼女が舌を出した。