「うう、さすがにちょっとしんどい」
 ロックガーデンまで辿り着いたは良いものの、思えばずっと走りづめだ。
 キャルは岩に寄りかかって呼吸を整える。
 先ほど、噴水のところで少々の休憩は取れたものの、顔を洗っただけで水を飲んでおくのを忘れていた。
「迂闊だったわ。洗顔ついでに、この際噴水の水でも何でも、口に含むくらいしておけば良かった」
 きょろきょろと、辺りを見回してみる。
 茜色に染まり始めた空を、寝ぐらへと急ぐ小鳥が、小さく鳴きながら飛んでゆくのが見える。耳を澄ませば、わずかな風に揺れる草が掠れる音だけで、他に物音はしない。
 背後の岩の上を、注意深く仰ぎ見る。
 千切れた雲が、薄桃色に染まり始めていた。
「まだ、ちょっとは大丈夫みたいね」
 何の気配もないのに、多少安堵する。
 それでも油断大敵なのは変わらないので、手に銃は握ったままだ。
「さて。どうしようか?」
 現在寄りかかっている岩の向こうには、屋敷の一階の窓が並んでいるのが見える。
 ゼルダに追われたのは屋敷のあちら側だから、随分遠回りしたが、目標位置まで近づいていることは確かだ。
「薔薇園が屋敷の中心から左側で、ここは右側だから、えっと?」
 屋敷の敷地の外へ、道のない森を通らずに抜け出るには、屋敷の外壁を伝って、このまま遠回りで進むか、多少の危険は冒してでも、屋敷に忍び込んで、誰にも会わないように内部を通過して近道をするか。
「どっちにしたって、この屋敷に辿り着いた道に出なきゃいけないのは一緒だけど。どっちが安全でより確実か?」
 考えなくたって、それは外壁を伝って回り込んだほうが、逃げ道も確保できるし、ゼルダが戻っているのかもしれない屋敷の中をうろつくよりはマシなのだ。
「だけど、ゼルダが後を追って来ているとしたら、お屋敷の中に入っちゃった方が早いのよね」
 小さな顎をつまんで考え込む。気が付かないうちに、深く考え事をするときのセインの癖が、うつってしまっていたらしい。
 そんな仕草に自分では気が付かず、キャルは屋敷を睨み付けた。
 もうすぐ夕焼けの時間だ。
 そうなれば、夕暮れの独特のオレンジや赤色の光に、視界が利きにくくなる。
「やっぱり、道の無い森に逃げるのは、やめといたほうが良さそうね」
 木々の枝が邪魔をして、星が見えなければ、方角さえも分からなくなる。
 森をちらりと見やって、視線を屋敷の内部へと移す。
「あら?」
 一階の、一番端の部屋で、何かが動いたような気がした。
「・・・人?」
 目を凝らしてみれば、その部屋のカーテンが閉められた。
 ピーターが戻ってきているのだろうか。
 しばらくして、隣の部屋に人影が移動した。何か、作業をしているらしい。
「あらら?」
 ピーターよりも背が高い。では、ピーターの他にも使用人がいたという事か?それなら、あの料理も、屋敷内の手入れが行き届いているのも、納得がいく。
「え?でも。あれ?」
 そうだ。この屋敷に辿り着いたとき、彼女は、ゼルダは言っていなかったか?
 この屋敷には、彼女と、ピーターと、メープル・チャイダンしかいないと。
 では、メープル・チャイダンとは、あのテディ・ベアではなく、使用人の名前だっということなのか。
 もう一度、キャルは屋敷を見つめた。
 先ほど人影が移動した部屋では、どうやら掃除が始まっているようだった。それが終われば、今度はベッドの上でシーツが広げられている。
 作業は単純に続いていた。
 しかし、その作業を淡々とこなしているのは、どうやら女性に見える。
「メイドさんなんていたのかしら?」
 あの屋敷に、ピーター以外の使用人がいたとなれば、屋敷の不思議には色々と説明は付くが、使用人部屋には誰もいなかったし、誰かが住んでいるような生活感も無かった。食料庫は空っぽで・・・。
「一つ謎が解決すると、もう一つ謎が出てくるっていうのはどうなのよ」
 ここにセインがいれば、何か別の考えを示してくれるのかもしれないし、それらの謎も解いてくれるのかもしれないが、今はキャル一人だ。
 八つ当たりもできない。
「考えてたって始まらないわ」
 キャルは屋敷との距離を詰めることにした。
 そろり、そろりと、周囲に気を配りながら、岩陰から岩陰へと移動して、徐々に屋敷へと近づいてゆく。
 近づいてみれば、先ほど見えた人影は、黒いジャンパースカートに、白いエプロンをつけた、女性である事がわかった。
 やはり、この屋敷にはピーター以外の使用人がいるのだ。
「そうよねえ。でなきゃ、一人でゼルダの世話をして、屋敷の管理もして、なんて、大変すぎるもの」
 すでに屋敷の壁の下にまで辿り着いていたキャルは、そうっと窓の中を覗きながら、うんうん、と納得する。
「そうとなれば、屋敷の内部を通るのは避けたほうが良いわね」
 今まで、どうしてこのメイドに会うことがなかったのか分からないが、とりあえずは、ゼルダから彼女へ、キャルを捕まえるように命令されている可能性がある以上は、屋敷の内部への侵入は諦めた方が良さそうだった。
 それに、まだ他にも使用人がいるかもしれない。
 それならそれで、全員にキャルの捜索をさせれば良さそうなものだが、淡々と仕事をこなす使用人からは、今のところそのような気配を感じない。
 そうっと窓から離れれば、同時にカーテンを勢いよく閉められた。
「びっくりしたー!」
 窓の真下にいたので、見つかってしまったかと心臓が飛び跳ねてしまったが、そうではなかったらしい。
「って、あれ?」
 間近で見たメイドは、なんと言うか。
「待て待て。メイドさんってことは女性よね?女の人ってことは、・・・メープルさん?」
 メープルはどちらかといえば男性名のような気がする。
 それに、彼女のカーテンを掴んだ両手が、普通の手ではなく、義手に見えたのは気のせいだろうか。
 とにかく、この場を離れてしまおうと、キャルは、体を隠しながら辺りを見回せるくらいの大きさの岩を、右方向に探した。
 ロックガーデンとはよく言ったもので、足元は歩きやすいように平らな石を敷き詰めてあるものの、組み上げられた岩や、それそのものが大きな岩がゴロゴロしていて、その隙間に高山植物やハーブなんかが植えられている。
 岩肌を這うコケモモなんかは、季節になれば赤い小さな実をつけて、ジャムにしたらおいしいだろう。
 身を隠すのに良い事は良いのだが、少々視界が悪い。
「背が低いから、余計よね」
 若干八歳。それは仕方がないと分かっているが、なんとなく腹が立つ。
 ちょうど良さそうな岩を見つけ、早速足をかける。ちょこちょこと登って、てっぺんまでは登らず、幅のある岩陰に体を隠しながら、上から庭を眺めた。
 セインの身長だと、これくらいの視界だろうか。
 そう思ったとき、目指す屋敷の右の端。
 外壁の下に、地面に扉がへばりついているのを発見した。
「また変なもの見つけちゃったわ」
 どう考えても地下への扉だ。
 では、台所になかった食料は、台所の反対だというのにあの扉の奥にでもしまってあるのだろうか。
「ありえないわね」
 それは効率が悪すぎるだろうし、食料庫の扉というようには見えない。
 とにかくその奥が空っぽであろうが、食料が沢山積まれていようが、キャルには関係がないので、脱出ルートの見当をつけて、キャルは隣の岩陰へと飛び降りた。
 屋敷から聞こえる物音は、先程のメイドが次の部屋の掃除を始めた音だろう。
 もう、義手のメイドのことは振り返らずに、キャルは一目散に走り出した。
 それが、後に大変後悔することになるのである。

『この先入るべからず』
 そんな立て看板の前で、セインは森の奥を覗き込んだ。
 夕暮れになり始めてしまった森の中は、既に薄暗く、いかにも何かが出てきそうな雰囲気を醸し出している。
「この道をまっすぐだよね?」
 誰に聞くでもなく呟いて、カバンの中から取り出した携帯用のランタンに火を灯すと、ほてほてと歩き出す。
「それにしても」
 この先入るべからず、と書かれた看板の少し前には、ゼルダ屋敷への道筋が書かれた看板が立っていた。
 色褪せて汚れてしまっているところを見れば、どうやらゼルダ屋敷がゼルダ屋敷と呼ばれるよりも随分前に、きこり達の家々を指し示すために立てられたものであるらしかった。
「看板で分かるようにしないと、家が点在しすぎてて分からないわけか」
 きこり達の家の場所を、屋敷を中心に指し示している地図の書かれた看板は、蔦が這っているだけでなく、ずいぶんと色褪せてしまっている。おかげで、屋敷の場所以外、きこり達の家の、正確な場所まではわからない。
 村で出会った気の良い親父の話では、この色褪せた地図と似て、きこり達の住んでいた家は、既に朽ちてしまっているらしい。
 ゼルダ屋敷だけが、そのまま残されて、古い地図に示されたとおりの場所に建っているのだ。
「なんか、それも淋しいなあ」
 少々哀愁を感じながら、セインはランタンの小さな灯りを頼りに森の中を進む。
 キャルは無事だろうか。
 もしや森の中で迷子になってやしないだろうか。
 心配ばかりが脳裏をよぎるが、一番の心配事は、どうやったら叱られないですむのか、だった。
「でも、どうせ叱られるんだろうから、逃走ルートを確保した方が良いかな」
 そんなことをボソリと呟けば、なんだかキャルのカバンが重くなったように感じられた。
「・・・キャルの呪い?」
 本人を目の前にして口には出来ないので、いないうちに口にしておく。
 そんなことをしていれば、森の中はすっかり薄暗くなってしまっていた。
「日が暮れる前に、キャルと合流できれば良いんだけれど」
 歩く速度を速めながら、セインはカバンを引っぱって、ゼルダ屋敷目指して進んでゆく。
 地図のとおりに行けば、この道で間違いないはずだ。
 きこりの村は、二本の道を中心に広がっており、その道は、森の奥にある屋敷に続いていた。
 そう。道は二本ある。
 今歩いている道は、屋敷から先程の村へと伸びている。
 もう一本は、屋敷を横切って、森の中をまっすぐ突き抜ける。
 始めてあの屋敷に辿り着いたときに辿った道は、どうやらそちらの、森を突き抜ける道のほうであるらしい。
 二本の道は、屋敷のすぐ脇で合流する。
 他にも、細かな道はあったのだろうが、地図が随分と色褪せてしまっていたので、読み取るのは難しかった。
 どちらにしても、早く屋敷に辿り着かなければ。
 もしかしたら、キャルのことだから自力で脱出して、森の外に、とうに出てしまっているのかもしれない。
 自分がどれだけ、あの骨董屋に展示されていたのか、確かめもせずに村を後にしてしまった。
「・・・急ごう」
 不思議で不気味な屋敷。
 ゼルダと名乗った少女は、三年も昔に亡くなっているという。
「あの子、キャルと友達になりたいって、言ってた。寂しいのかな」
 森の中。大きな屋敷に、熊の縫いぐるみと、ピーターとかいう、多分使用人と。
 他に誰も居なければ、それは寂しくて当たり前だろうと思う。
 自分達を引き止めようとしたのも頷ける。
 あの寂しい、美しい少女は、いったい誰なのだろうか。
「あれ?」
 考え事をしながら進んでいると、道から少し外れた場所に、崩れ落ちた屋根が見えた。
 近づいてみれば、思ったとおり、きこりの家らしい。
 柱も壁も、すべて木を組んでつくられているので、苔やきのこが生えたりしていた。
 半分以上倒壊してしまっているが、辛うじて室内に入ることができる。
「おじゃましますねー?」
 そうっと、中に足を踏み入れれば、足元の床が崩れ落ちた。
 足元に気をつけながら、天上のない室内をランタンで照らし出せば、隅の作業台らしきシンプルな机の上に、様々な道具が置き去りにされていた。
 木を削るための色々な形をした刀や、彫りかけの何かの部品。
 風雨にさらされて、黒や緑に変色したりしている。
「これ、器用だなあ」
 人の手の模型が、崩れかけてはいたが、台の端に置いてあった。五本の指、それぞれの関節。それらがきちんと動くようにできているらしい。
「細工師の家だったのかな」
 そんな感想を抱きながら、セインは目的のものを探す。
「作業台の側に置いてありそうなものだけどな」
 がさがさと探りを入れていれば、作業台の端に、小さな引き出しがあった。明けてみれば、かたん、と、ブリキの缶が一つ。
 ランタンの光に当ててみれば、この朽ちた家の中で、奇跡的に綺麗なまま残っていた。
 振ってみると、ちゃぽちゃぽ音がする。蓋を開けて、匂いを嗅ぐ。すると、独特の臭気が、鼻を突いた。
「あったー。良かった。これで今夜の分は大丈夫」
 ブリキの缶の中身はランタンの油だ。
 目的のものを見つけ出して、再び屋敷へ足を向ける。
 実は、ランタンを出してみたら、油が足りないのに気が付いて、きこりの家を見つけたら、少々申し訳ないが家捜しをするつもりでいたセインだった。
「確実にあるってわけじゃないから、なければお屋敷から何かかっぱらうつもりでいたけど、それも手間だしね。ここで見つかって良かったよ」
 ゴロゴロと、カバンを引きずって、セインは心置きなくランタン片手に、暗くなってしまった森の中を走り出した。
 あとは、どうやってキャルを探し出すか。セインはそれだけに専念することにした。




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