第六章 深夜に差し掛かろうという時刻でありながら、ちらほらと蠢く男たちを後目に、パンナは大急ぎで城内を闊歩していた。 城主であり、領主でもあるパムルの命で、領民たちはもちろん、城に使える使用人たちも、見張り番以外は、本来ならば寝静まっていなければならないのだが、当のパンナ本人が寝むってしまっている。 バレなければ良い。 そういう事であるのだろう。あの、逃げたセインという青年を探して、カントの手配の元、使用人たちを含め、身のこなしが常人ではない者まで混じっている。 「何が、デュナス家の御為か…!」 尊敬しているといったその口で、パンナを欺いている執事に、パムルは苛立ちを隠せなかった。 せっかく捕らえた家庭教師に、連続して逃げられているのだから、隠密に事を進めたいはずだ。しかしだからといって、あの雇い入れたらしい連中は何なのか。今まであんな連中は見た事がない。 それこそ、パムルがこうして目撃しているのだから、人にいくら見られてもかまわない、という事なのだろう。 得体の知れない連中を城内に招き入れたとパンナが聞けば、カント自身が窮地に立たされるだろうに。 「何か、考えているとしか思えない」 セインの予想を聞いていたわけではないが、パムルは独自にカントの行動の不可解さに気付いていた。 急ぐために、パムルの足は速くなり、歩幅も大きくなる。 目的の部屋に辿り着き、大きく息を吸い込むと、唇を引き結び、パムルは大きく堅い扉をノックした。 「…誰だね?」 「夜分遅くに申し訳ございません。わたくしです。パムルです。お父様」 幸い、父は起きていてくれたらしい。 「そろそろ、来る頃だと思っていたよ」 父の言葉に、少し笑みがこぼれる。 「入りなさい」 ようやく入室の許可が下り、細い指先に力を入れて、ドアノブを掴む。 「失礼いたします」 そうっと、パムルは父の部屋へと、足を踏み入れた。 「あれ?」 朝。 鏡の前で、セインが一生懸命顔をいじっているのを、ジャムリムが見つけた。 「何やってんだい?」 「あっ」 見られているとも思っていなかったのだろう。慌ててセインが振り返った。 いろいろと人並み以上のこの男が、ジャムリムの気配にも気付かずに、鏡を覗き込んで何をしているのかと思えば。 ジャムリムは思わず笑った。 「ひどいなあ」 「くくく、ごめんよ、セインさん」 滲んだ涙をぬぐって、ジャムリムは改めて、セインの顔を見た。 彼がナルシストで、一生懸命お肌のケアをしていた、というわけではないらしい。 それでもそれなりに、セインの顔は整っている。その、整った鼻筋の上に、いつもの眼鏡が乗っかっているのだが。 「どうしたっていうんだい?それ」 眼鏡が斜めになってしまっていた。心なしか、形まで変わって見える。 「あー、昨日、君らと再会する前に、ちょっとね」 考えてみれば攫われたり脱出したりと、昨日は大忙しだったセインである。あの城で、みんなと再会する前にひと悶着くらいはあったのだろう。 「そういや、昨日は眼鏡、掛けていたっけ?」 「掛けていましたよ。けど、邪魔になって途中で外したんですよ。なにせ、コレですしね」 ぱ、と、フレームを支えていた手を離せば、眼鏡は盛大にずれた。 「眼は見えるのかい?」 「ええ。本当なら、眼鏡はいらないのですがね。無いと落ち着かないというか。習慣みたいなもんです」 苦笑しつつ、セインは眼鏡を外した。 「街へ戻れたら、眼鏡屋を探さないとねえ?」 「探して、修理してもらう時間があれば良いんですけどね」 「本当に、そんな余裕があれば良いけど」 下から聞こえた声に、視線を下げればキャルが眠そうな目を擦っていた。 「おはよう、キャル」 「おはよう」 「おはよう、キャルちゃん」 「おはよう、ジャムリム」 それぞれ朝の挨拶をかわすと、朝食の準備が出来ていると言って、キャルはリビングへと戻って行った。 「昨夜は寝るのが遅かったからなあ」 キャルが顔を洗ったのは確認しているので、すっかり眼は覚めているだろうと思っていたセインは、眠たそうなキャルの様子に眉尻を下げた。 「キャルちゃんだって、まだまだ子供だもの」 ジャムリムはキャルの後ろ姿に眼を細める。 「さ。せっかく呼びに来てくれたんだ。早く行って朝飯食べちまおうか」 セインに肩を貸そうと、手を伸ばして気が付いた。 「あら?」 昨夜は歩く事も立つ事も出来なかったセインが、壁に身体を凭れ掛けているものの、ちゃんと立っている。 「少し休んだら、だいぶ足も楽になりまして」 よたよたと危なっかしくはあるが、歩き始めた。 「一晩で、そんなに治るもんかい?」 「いやあ、常人より、もともと丈夫に出来ていますから」 それでもちょっと不安定な歩き方なので、結局無理やり肩を貸した。 「すみません」 「いや、これくらいは良いさ。しかし、丈夫とかいう問題かい?」 「はは。良く驚かれます」 笑ってごまかすセインに、ジャムリムはため息をつきつつ、ごまかされることにした。 「ま、いいさ。広い世の中、そんな事もあるだろうさ」 「恐れいります」 さすが、あのギャンガルドが気に入って、傍に置くような女性である。 セインはジャムリムの細い肩に体重がかからないように気をつけながら、ひょこひょこと足を進めた。 あとで、ホテルに残してきただろう松葉杖の代わりを、タカに作ってもらわないといけないだろう。 一晩のセインロズド化で、ずいぶんと足は良くなった。とはいえ、まだ完治とは言えない。 それに、このままさっさと完治して、とっとと歩きだしてしまっては、さすがに言い訳するのがつらいだろう。 食卓に着けば、キャルが無言で椅子を引いてくれた。 「ありがと」 席に着けば、テーブルの上は既に美味しそうな朝食が並んでいる。 こんがりと焼かれたトーストにはバターがとろりと塗られ、好みに合わせるように手作りのジャムと蜂蜜が添えられている。淹れたてのコーヒーに焼きたてのビスケット。新鮮な野菜にチーズ。 ベーコンと根菜のスープは湯気と良い香りをたてている。 「おはようございます旦那!」 「おはよう、タカ。ごめんね、昨夜は」 「いいえぇ!面白いもん見してもらったんですから、貴重な体験でやした」 こそこそと、声を小さくしてしゃべってくれるところが、気遣い名人のタカらしい。くすりと笑えば、にかりと笑い返してくれた。 「さ、食べようぜ」 ひとり、何だか機嫌の悪かったギャンガルドが、さっさとスープを口に入れている。 よほど満足した味だったのか、どんどん機嫌が上昇するので、キャルは呆れて海賊王の顔を見ていた。 「今、何か物音がしなかった?」 キャルがスープをすくったスプーンを口に運ぼうとして、動きを止めた。 全員が、耳を澄ます。 遠くから、嘶きが聞こえた。 全員の視線がセインに注がれて、慌てて首を横に振る。 「クレイの声じゃないよ?」 「ご飯あげたの?」 セインの愛馬でありながら、キャルのお気に入りでもある栗毛の馬は、今朝も元気に草を食み、セインを乗せて清々しい早朝散歩を堪能している。 なのに疑いの眼差しを向けるキャルに、セインはムッとして反論しようと口を開けた。 「ご飯どころか朝の散歩だってして」 ドガガン!! 最後まで言い終わらないうちに、玄関の扉がけたたましい音と共に吹っ飛んだ。 「皆さん!今すぐお逃げ下さい!」 馬で蹴り倒したドアを踏みつけて、馬上のまま服も髪も乱して現れたのは、この家の持ち主であるパムルだった。 「どうしたっていうの!?」 あまりの登場の仕方に流石に驚いて、全員の動きが固まった。 セインだけが、辛うじて声を上げて事の次第を問い質す。 「詳しく話している時間はありません!外に馬を連れて来ましたのでお早く!道案内は彼らが」 一息に喋って、パムルは馬から飛び降りる。彼女が指し示す外を見れば、カールとラルの兄妹が、馬を牽いていた。 「セイン様のお馬も、今お連れしますから!」 自分の乗って来た馬の手綱をジャムリムに手渡し、パムルはひらりと身を翻し、砕けたドアから外へと飛び出していく。ただ事ならない様子に、全員が一斉に動いた。 「忘れ物はないね?」 荷物を手早くまとめ、各々宛がわれた馬に飛び乗った。 最後に、駆けて来たクレイにセインが乗り、全員が馬上に居る事を確認して、パムルが自身の乗る馬の腹を蹴る。 「城壁の門まで走ります!遅れなきよう!」 彼女はスカートの裾を翻し、振り向く事なく、灰色の馬を駆けさせた。 彼女らしい地味なドレスの下に、乗馬用のブーツが見える。急いでいるようで、何か計画があるらしい。 リーン ゴーン リーン ゴーン 朝靄の中を、突然重苦しい金属音が響いた。街だけでなく、領民全てに、朝食開始を告げる音。 「朝の鐘か。なるほど、きっちりしてら」 感心したように、ギャンガルドが呟く。 海賊王の馬にはジャムリムも乗っている。パムルの乗って来た黒毛の馬だ。 当のパムルは、カールの牽いていた馬に跨がっていた。 しんがりは兄妹が務めている。 城の建つ丘を降りた所で、タカの背中にしがみつきながら、キャルは振り向いた。朝焼けに染まり、黄金色に輝く森の輪郭とは裏腹に、高台にそびえる城は黒々と日の光を遮り、徐々に離れて行く。 「お日様の光って、朝は何でも綺麗にしてくれるものだと思っていたけど、例外というのは必ず存在するものなのね」 城から興味を無くし、キャルは前を見る。爽やかな空気で満たされた目の前の街並みには、本来なら忙しそうに行き交うはずの人々の姿は見られない。 それはなんとも寂しい光景だった。 その城と街とを隔てる低い生け垣の前まで来ると、パムルが馬を止めた。 「私はここまで。後は兄妹がご案内致します」 彼女とラルが入れ替わり、再び有無を言わさず、彼女は元来た道を走り出す。 「パムル!!」 セインがクレイの足を止めたのを、カールが制した。 「大丈夫ですからお止まりにならず!」 自分だけでなく、カールまで足止めさせるわけにはいかず、仕方なく、セインは再びクレイを走らせる。 振り返れば、パムルが手を振った。 「お気を付けて!」 そう叫ぶと、彼女は馬首を廻らせ、城へと戻って行く。 彼女一人、何かあったであろうあの城に帰すのかと、カールを睨めば、彼は唇を噛みしめていた。 「気を付けるのは、パムルの方じゃないの?」 「!…」 並走しながらカールから視線を外し、顔を見ずに尋ねれば、苦しげな沈黙が返って来る。 セインは大きくため息を吐いた。 「僕らは良い。君はパムルの側に戻って」 「貴方がたを無事に逃がすように仰せつかっております」 カールは思っているよりも、随分と生真面目な性格だったらしい。 「バカだな。会ったばかりの僕らと彼女、どちらが大事?」 「え?」 「君のご主人の娘で、このヘンテコな領地を立ち直らせられる数少ない人材は誰?」 生真面目な事は別に悪い事ではないが、今、この場で頑なになる事ではない。時には融通も機転も効かせなければ。 「…」 驚いたように眼を見開くカールに、セインは更にたたみかけた。 「何より、彼女に何かあったら、君のご主人も、君も、君の妹も、取り返しがつかなくなるのじゃないの?」 ようやくこちらを見やったカールに、セインは微笑む。 「今ならまだ取り返しがつくよ。僕らの事はラルに任せて。君の妹は優秀だろう?」 先頭を行く小さな背中からは、しっかりとした意志が感じられる。その妹の背中を見つめ、カールはゴクリとひとつ、息を呑み込む。 「ありがとうございます」 小さく呟いた。 「何の。これでも修羅場は何度も経験している」 馬を近づけ、子供にするように、カールの頭をなでた。 領主付きの召使いは一瞬顔を赤らめたが、すぐに厳しい表情に戻ると、馬の腹を蹴り、方向を転換させる。 「それでは、お気をつけて!」 「君もね」 振り返らずに、一目散に城へと馬を飛ばすカールに満足し、セインは仕方がないとばかりに子供を叱る親のような顔になる。 |
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